20210731

引っ越して2ヶ月。だいぶ色々なことに慣れた。特に自炊はこの1ヶ月で数をこなすようになり、引っ越して間もない頃と比べて食べる様にもなったし、レパートリーも増えた。出張続きの自分からすれば保存期間の長い食材をいかに使い切るかが課題であり、作り置きも覚えたし、出張帰りの日も冷凍しておいた食材を食べられる様になった。節約とか金銭的な問題よりも健康的な問題の方が今期の私からすれば問題なので、大きな進歩かなと思う。

4回目の緊急事態宣言、という言葉も感染者数が東京で3000人を超えたという報道も、正直ライフスタイルがこれ以上大きく変わる事がない以上、もはや言葉の重みを感じることはできないだろう。言葉に重みも、危機感も、重要性も、そこにはない。勿論自分自身が感染してしまうかもしれない恐怖(症状というよりも社会的に隔離されてしまう事への)がある。それに人数を聞いて一番に思う事は都内の病床数や施設数、医療従事者への負担を想像するだけで自分の様な人間が迷惑をかけてしまうのではないか、という気持ちもある。そう思えば3000人という数字は非常に大きな問題である事は間違いではないのだが、断片的に抉り取られる報道や言葉を観ているとどの判断の元に選ばれたのか、という理由は常に問いたい気持ちでいる。

そういえばこの家にはテレビがない。買うつもりもない。あれば嬉しいしきっと見るのだろうが、無いこの生活でも充分に生きていける。元々小さな頃から母親がテレビを独占して観ている様な家庭だったし、テレビに釘付けになった事も多くない。テレビの無い生活はずっと小さな頃から今まで続いている。

先日その話を上司にしたところ、「テレビが無いってどういうこと?」と言われた。非常に驚いている顔をしていた。特に今はオリンピック真っ只中だし、その顔には「お前、オリンピック観ないのか?」という感情も混ざっていた事に違いない。最後にオリンピックを意識してみたのはいつだろう。北島康介が平泳ぎで金メダルを取って「気持ちいい、超気持ちいい」って言っていたことくらいしか記憶がない。あの時は私自身も水泳を習っていて(密かに水泳選手になりたいという夢があった、あの時は純朴な少年の様な夢があった。)平泳ぎがあんなに早く泳げるんだ、と夢中になっていた。ただ、それ以降にオリンピックは私の記憶には焼き付いていない。

テレビの話、オリンピックの話を上司にされた時、何となく私の中に一般的に通ってきたと思われる道がない事に気がついた。この前会った異性にも「ジブリ観ていないんだ」と若干引かれた様な驚き方をされたし、優しい映画(それが何なのかはよくわからないが・・)を観ていないから「人の心が無いよ、それは」と言い放たれたり、散々だ。今の時代、自分の意思で「何となく社会的に通った方が良いもの」を選んで通る事もできるのだろうが、この歳になって今更それを選べない。プライドとかそんな些細な感情ではなくて「選ぶ方法がわからない」が適切だ。根本的に幼少の記憶やこれまで育てられた環境、生きてきた環境も少しは影響しているのではないかと思う。それに今更「通ってきていないからおかしいと言われてもなあ」と思うし、観ようとは思うがこれまでに無かった「人の心」を回収する気持ちは一切無い。(これはプライドなのかもしれないが)

「人の心も痛みも、誰かに私自身が伝えられる様な、助けられる様な、そんな人間になれるわけがない」と思っているから、多分何を観るにしても自分の為にしか観ない。だから、ホラーを観たり、スリラーを観たり、してしまうのかな。正直「人の心が無い」と言われた時はショックで相手の方が「人の心が無いのでは」と思ったり、ショックを受けて「人の心が私にもあるじゃない」と思ったり。感情は複雑だ。