これも私なのです

 

新年に入って考えている事

二度目の緊急事態宣言。もはや効力のない、ただの警鐘の様に聴こえる。

社会に対する人間のそれぞれの行動や行為については所謂「他者」であるので深く言及するつもりは毛頭ない。ただ、この状況も読めず自分がいつ社会負担へと加担するかもわからない意識のままに生活するのは違う様に感じる。ただ、あまりこういった「他者」に対して攻撃的にはなりたくないというのは常々記しておきたい。

緊急事態宣言が起こる前の都内感染者数を見て、少なからず自分自身への危機意識の再認識とこれまでの私自身のリスクヘッジの甘さを痛感している。

検査数や感染者数における「症状レベル」についてはもちろん無症状患者もカウントされているが、これだけ一日で都内感染者数が増加しているという事は、やはり一度目の緊急事態宣言解除からこれまでの様な油断した生活は難しい、という事なのではないだろうか。

 

こういう時は大抵、私自身の精神が荒んでいる時と重なるからだと既に自覚しているからである。「私はこんな状況だから家にいるのに」とか少しでも思っている時点で私自身が精神的に危ういのだ。こういう時は潔く凡ゆる社会との断絶を図るしか方法はない。

私の断絶の方法には大きくわけて次の方法がある。「読書、ゲーム、ギター」である。

読書については新書、小説、詩集と何でも進んで読めるので飽きない。作家やジャンルについてはある程度の偏りがあるのは否めないが、それでも社会との一切を断ち切る方法の一つとしては充分過ぎるだろう。

ゲームについても専ら私が嗜んでいるのは「大乱闘スマッシュブラザーズ」、通称スマブラなのだが、これは夢中になることができて良い。手取り早く社会から離れられるのは良くも悪くもゲームだな、と思う。しかし、やはり格闘ゲームのジャンルに位置する事もあって「敗北」は悔しく、「勝利」は嬉しい。そこに感情が宿るのは辛い。そうやって気が迷う時は素直にゲームをやめて他の断絶の方法に移る。

ギターは社会断絶の方法の一つであると共に私自身の今を記録するツールにもなっている。ギターを弾く、楽曲を演奏するという事は少なくとも自分自身の今好んでいる(弾きたいと思える)曲を意識しているからである。そこには自分自身の心情があるはずなのだ。

 

話は変わるが、心情というと先日読んだ本から考えさせられた事がある。

平野啓一郎著『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』を読んで明確に認識した事になるのだが、私にもコミュニティや趣味の数だけ、個人を細分化した「分人」と呼べる存在がいる。どこまで明確に「分人としての私」を定義付けるかは未だはっきりとはしていないが、平野氏の著書を読んで覚えたままの事を言うとすれば、好きな音楽のジャンルの数だけ分人としての「私」は存在するはずなのである。

私が日常的に主に聴くジャンルはメタルだ。しかしそれだけが音楽的な嗜好ではない。私も時としてUKロックやドリームポップ、オルタナティブな楽曲を聴いたりするし、昭和歌謡が好きで一日中メタルから離れてそれらを聴くときもある。

時々「君はメタルが好きで」と言われる。うん、確かにそうなのだがそれだけではないとも思う。ただそれは会話をしている相手に対して「メタルが好きな分人としての私」が見えているわけで「昭和歌謡が好きな私」は見えていない。

この様に、一瞬相手に決めつけの様に言われると「それは違います」と言いたくなる様な事も、「分人」という定義の元で「個人」としての私を細分化していく事ができていると、余裕を持って受け応えができるのではないかと本書から感じた。

 

開き直りの様に見えるかもしれない。だが私は次の様に考える。

相手からは「私」なんてほんの一部しか見えていないのである。ほんの一部しか見えていないから断定されるし、その元でコミュニケーションの相違が起こる。

よく対人関係で「この人とは何だか気が合わないな」と思う様な事も、「この分人としての私の見せ方はまずかったのだろうか」と一つ距離を置いて考える事で別の分人としての「私」を用意する事ができるの。いわば心の余裕を持つべきであると言う事なのだと思う。

 

コロナ禍と言われる状況になってから、他者の行動に価値観の違いを感じる事が多くなってきた。これまで親しかった友人とも「何か違うな」と思う事が多くなって距離を置く(置かれる)事もあった。

同時に他者との価値観の違いを感じる事で、私自身の価値観/「私」とは何か?と考えさせられる機会/時間が多くなった。そしてコロナ禍という他者との交流がうまくできないまま自分自身の闇の中に閉じ籠もる事が多くなる。多くの人間がネガティブマインドになるのは自明だろう。

価値観の違いは簡単に近づけられる事でもない。私はこれまで親しかった他者にも隠れている「分人的要素」があるはずだと考える事としたい。私たちは全てを曝け出して他者と関係性を持っていない。必ず他者と関わる上でこれまでに知らない「分人的要素」はいつ私の目の前に現れてもおかしくはない。それが偶然、コロナ禍と呼ばれる社会全体を大きく脅かす事象であったというだけの事だ。

 

少なくともリアルなコミュニティとの関係性を深くインターネットに持っていなくて良かったなと思う。TwitterをはじめとするSNSはリアル社会、日常との逃げ場なのだと痛感している。これもまた、インターネットにいる分人の私。今のところ構成比率は大きいかもしれない。

 

k-hirano.com

 

あとがきの様な形になってしまったが

ここまで書いてしまったので後には戻れない形になってしまった。

新年初という事もあってもう少し今年の抱負とか前向きな事を書きたかったが、二回目の緊急事態宣言と何とも言えない社会に疲弊してインターネットと上記断絶方法に甘えて社会から逃避している毎日である。

なるべく自衛をしていきたい。健全に。