20220522

ふと気が付けば前回から3ヶ月もの月日が経っていた。あっという間だ。ここ最近の自分はというと、文字と向き合う機会がめっきりと減ってしまった気がしている。友人と会う機会が増えたこともあるが、平日資料を読んだり活字に触れる事・考える時間が増えて頭が疲れ切っている事が主な要因であると思っている。加えて読書をしたいがまとまった時間がなく、読みたい本ばかりが増えては「いつか読むぞ」とその場の心意気だけは十分にして部屋に読んでいない本が積まれている。反面、映画を観に行く事は増えた。記録しているFilmarksを振り返ると今年に入って13本観ていたようだ。去年とは変わってなんだか映画を観たいと思う自分がいる。

理由は第一に、映画を観に行く事を口実に外出ができる、という事である。元々何か予定を生み出さない限り出不精な自分としては、「決められた時間」に「決められた場所に行く」事が生活の軸になり、休日の自分を支えるようになった。今日だって、朝起きて最寄りの映画館のスケジュールを確認しては先週何となく観ようと思っていた「流浪の月」を観た。これが個人的にはかなりの衝撃的な作品で、何だか当分は引きずりそうな気がしている。俳優もキャストだけで贔屓目にする事なく、役に対して没入しながら観る事ができたな、と。二週間前に観た「死刑にいたる病」の阿部サダヲの怪演っぷりで唸っていたし、何かと邦画にも生活を励まされていると思う。

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なんだか映画の話が今日の主題になりそうが、続けていく。

 

自分が映画を観に行く基準というのは明確に定められるようなものはないけれど、基本的には海外ホラー、スプラッター、SF辺りを好んでいるように思う。決して「邦画は劣っているので観ない」なんて意識はないのだが、どうも海外の映画に気を取られがちなので自然と優先度が下がっている。

もう一つ言うならば、あまり大きなスクリーンは得意ではないように思える。これはただ小さなスクリーン・ミニシアターで観る事が多いからなのかもしれないけれど、先週「シン・ウルトラマン」を日比谷IMAXで観た際にあまりにも大きなスクリーンと音響で少々疲れを感じていた事もそう思う要因の一つなのかもしれない。いや気持ち的には「折角の映画だし大きいスクリーンで、一番良い席で観たいよね」と思っているのだが・・多くの人が入るよりも小さなシアターで、静かにレイトショーで観るくらいが自分には丁度良いのだなという気付きだ。平日のレイトショーで観られるのなら、是非そうしたい。

個人的な感覚にはなってしまうのだが、特にホラー・スプラッター映画は物静かな時間に一人で唸りながら観終え、劇場から出る際に誰一人言葉を発する事のない「あの感覚」が物凄く好きで(皆がおぞましいシーンや内容を「感想」として作品を観終えた瞬間だけでは形容するには難しいような)それを期待して観に行っている、まであると思う。「POSSESSOR」とか「TITANE」とか、「ハッチング」とか・・まさにその時間を皆が共有するかのように黙り込んで劇場を出ていく瞬間が何より堪らない。咀嚼しきれないほどの恐怖を抱かせてくれる作品は自分が観たいと思えるホラー映画なのだと思っている。そうは言ったものの、感想を書く・記録する間もなく時間が過ぎてしまうのも嫌なので、どうにかメモをまとめていきたいとは思っているのだけれど。有り余るほどの時間が今は無性に欲しくてたまらない。

早稲田松竹で昨年見そびれた(というよりチェックし忘れていた・・)「マリグナント」も中々で。ストーリー云々よりも様々な恐怖がまだ続くのかというくらいにはシーンとして描き出されていく進行には脱帽した。それこそ「まだあのシーンの怖さから逃れられていないのに・・」といったように観る者をガンガン殴ってくるような仕掛けの連続だった。たまにこうやって再上映してくれる劇場には感謝・・

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気分で書き殴っていたら良い感じに映画のあれこれが書けたのでここで終わりにする。

今日でこの街に引っ越してから丁度一年が経っていた。たった今、このブログを書いていてふと気が付いた。あと一年くらいかな。どうなることやら。

20220220

茶店Macの電源を入れ、いざ文字と向き合おうとすると頭から浮かんでいた言葉も文字ももやがかかったかのように見えなくなってくる。日々、何かを常に思考している自分なはずなのに、言語化どころか感情の全てが見えない何かに支配されてしまったかの様な気持ちになる。

ここ最近の日曜日の昼間は大体喫茶にいる。翌日の事や自分の時間を守るには、喫茶は最適だと思う。引っ越しをして、最寄り駅が大きく、それなりの規模感を持つ中で人気の少ない喫茶があるというのは不思議だ。隠れたエスカレーターを上がって2階にあるこの喫茶は騒がしくなく、窓の近くの席に座るとこの街の動きを少しだけ俯瞰した様な気持ちで見られるから何だか楽しい。

この1週間、誰にも会えていないなとふと感じた。別に会わなくてもやっていける、とも思うけど、ふと振り返ると誰にも会えていない事を知る。会いたい人ってそもそも、というのもあるけれど。基本、一人行動が多い。買い物も映画も、美術館に行くのも、自分の思考を遮りたくないというのが本音だ。

以前に映画を観る事は一度誰かと行くのも良いかな、と思った。しかしそれも自分にとっては難しい事のようで、隣に座っている知人を多少なりとも気にしてしまう癖があるし、観終わった直後の感想交換会の様なものが苦しい。自分は感想がまとまるまで何度も自分の中で作品を反芻しては纏まりを得ていくタイプだと思っているので、感想を直後に聞かれても何も返せない・・部分がある。だから、苦しいのだと思う。人と何か同じものを観る事が。

 

 

20220122

前回の更新からかなりの時間が経ってしまった。気がつけば新しい年を迎え、変わりない日々を過ごしている。

年末年始は長めの帰省(といっても隣県だが)をした。その帰省も結局は高校の友人たちと会い、コロナが収束したわけでもないが「今会えてよかったよね」なんて言い合い、こじんまりとした人数で酒を飲んだりした。年始が過ぎた瞬間に世間はまたもオミクロン株に揺さぶられている。

新年の目標は、とよく言うが元々目標というものが好きではない。悠々自適に暮らしたいからとかそういう事ではない。新年早々に自分を確定付けるような事を言いたくないだけだ。だから、1月はのんびり生きられれば良い。自分の性格や感情、思考は大切にしたい。世間の不確定な情報や意見、俗説に揺さぶられず、自らの意思の下で決定したい。

そういった目標とは別物で、今年ぼんやりと意識したい事はある。世間を広く、浅く、知ろうと思う。保守的な意識をなるべく自分から離す。凝り性故の凝りは残しつつ、なるべく自分の守備範囲外の事物と触れ合う機会を増やす。その上で、より自分が好きであると思えるものは何か探すことにしよう、と。

私生活でいうと、酒の嗜み方をそろそろ良い「加減」を覚えたいなと思う。そもそも沢山飲んで、酒があるから楽しくなれる、みたいな自分自身への意識をやめにしたい。御年25歳だから、というのもある。それに落ち着いて酒を探したいなと思う。これはコロナで在宅期間が増え、一人暮らしを始めて好きな酒を買いだめる事ができるようになったというのも大きい。できればそうやってゆっくりとした時間を過ごしていく中で、気の合う友人と気になる互いの酒の情報交換ができたら良いなと、薄ら思う。

まとまりが悪い

10月は仕事的にも忙しいし、季節も変わり目に差し掛かってきたのか、非常に調子が悪い。なんていうか、直感的だけど、まず一つに文体がまとまらない。冷静な判断ができていない。多分、時間的に余裕がない。逼迫されているのだな、と思う。決められた時間の中で、考え、言葉を返す、といった普段通りのルーティンが何かによって阻害されている。常套句的に「季節の変わり目だし〜・・」って、言いたい。許してほしい。

Twitterもこういう時に見ていても良くないな、と思う。何か言いたいけど、消す・下書きという駄文の墓地に収めている。かなりの駄文という死体で山積みになっていて、それに気が付いた時(というか今)、そういう時ははてなブログに全部投げてさようなら、って決めていた事を思い出す。

 

長々書いたけど、要はメンタル面だと思う。正直、あんまりよろしくない。

 

ただ、体調面は幸いにもそれなりで、ワクチン接種で想像していた通りの寝込みをしたくらいだった。二回目となると何となく予兆も調子もわかってくるけれど、そもそも「明日絶対に体調崩しますよ、自分」と、想像できる不思議さというか、気持ち悪さというか、初めての体験だったので不気味だ。と言っても恐らく副反応が出た人間の中ではまあまあ辛かったんじゃないか、と思っている。この日に初めて大戸屋の定食を食べた。Uberだけど。調子が良くない時は大戸屋のご飯なのかもしれない。これを知ることができたのは良かった。

 

緊急事態宣言が解除されて、少しずつ飲食店に夜間の賑わいが戻りつつある。吉祥寺もついこの前までは殺風景な街並みだったのに、自分がそれまで来たことのなかった姿を戻しつつある。とはいえ自分も何軒かかつて訪れていたお店があったので、仲の良い友人と飲みに行った。コロナ禍で会っていなかったので二年振りだった。それでも変わらず世間話から知り合ってからお互いに頑張っている事がコロナ禍に遮られずに続いていたりと、とても良い時間だった。と思う。ただ、記憶がない。何を話していたのか、覚えていない。これも二年振りだった。無意識に二日酔いを避けるスキルが自分自身の内に健在だった事を朝起きて気がつく。毎回そうなんだけど、二日酔いにならない代わりに、朝起きて自分自身の酷い行動に憂鬱になる。本当に首吊りたいレベルの希死念慮で一日中苛まれる始末。良い歳、大人しく、自制したい。

 

本当は先週行った庵野秀明展のこととか、それに感化されて観た庵野作品のレビューとか、そういう事を書こうとしていたのだが、何とも言えない気持ちでいっぱいで、そんな余裕もないみたいだ。意外と夏は映画も観たことだし、その辺りにも触れたかったが、記録するほどでもないという事なのだとも思う。もう少し下書きに寝かせておいて、時期が来たら書けばいい。

 

10月は無心に通り過ぎるのを待つくらいで静かに生きていきたい。ただでさえ外的要因で揺さぶられやすい今の心、これ以上息の詰まるような出来事が起こらない様にただただ願うだけだが。それに11月末までは忙しない日々が続く。三年振りに展示をすることにした。特に深い意味は無い。元々個人で展示を今年度はできればと思っていた所に企画展を共にすることになった。タイミング的には緊急事態宣言も解除されて、好機かなと思う。個人的には無理に来てほしいとは誘わない性分なのでギャラリーが運営できる状況というだけでも大変嬉しく、有難い。でも、このままコロナもどこか過ぎ去ってほしい。これで終わりにしよう・・

 

 

・最近聴いていて好きになった曲

吉澤嘉代子「サービスエリア」

Cocco「ポロメリア」

赤い公園「消えない」

きのこ帝国「You outside my window」

 

父のいない九月もこれで二回目になる。「命日も近いから、連休で実家に戻ってきて」と母親に言われて、この連休で実家に帰った。本当は毎月何らかの形で帰ろうと思っていたが、8月は控えていた。

小田急線下りから見える景色はもはや懐かしい。最寄りに近づくにつれて車窓から見える田畑は、ついこの前まで毎日の様に見ていた景色にも関わらず、どこか幼少の頃を思い出す。

午前中から実家に帰ると、そこには父親の同級生が先に家に来ていた。二年前に父親が緩和病棟に入院してから接点が私とも濃くなった4人。それぞれのキャラが濃く、仲の良いおじさん達。いつ見ても羨ましい関係だな、と思う。

世間話も交え、少しばかり仕事の事を聞かれる。父親と同じ歳の、妻帯持ちのおじさん達に仕事の事を話す。父親が生きていたら、どんな事を話しただろう。悩みを打ち解けても大した返事をくれなかった寡黙な父親だったが、時間をかけて返してくれる答えを今でも欲しくなる。

今日はおじさん達と、母親と私で父の眠る墓参りをする事になっていた。ぎこちないが、私が運転して、母を連れて行く。少しは何か進んだ姿を見せたい。この歳になっても誰に対しても背伸びをしたがってしまう。

形式的に墓参りが終わる。ここでおじさん達とは別れる事になる。不意に「おじさん達は、いつまでもどうかお元気で」「おじさん達は、家族を大切にしてよ」と言葉が出る。準備していない言葉、本心が咄嗟に出てしまう。

帰りの車中で母と二年前の事を話す。今になっても当時のその時々の選択肢は間違っていなかったのか、なんて思い出話ばかりだ。そして口癖の様に「なんでうちのパパだけが、あの中から先にいなくならないといけなかったのかなあ」なんて言う。事実、私もそう思う。ずっと私の中に遺る母の言葉だと思う。息子にはどうにもならない、どうしようもない、感情。

けれど今年の九月はどこか明るかったと思う。父がいなくなってから訪れる初めての九月よりも、今年の九月は笑い話が絶えず、今の家庭にも少しずつ陰りの中から光が差し込んでいる様に思える。痛みと悲しみは時間の経過と共に忘れていくことでしか拭えないものなのではないかと思う。ずっと引きずる必要もない、風化させていく事も時には必要だ。遺された人間にも残された有限な時間がある。いない人のあれこれを考えてもどうしようもない。特に元々寡黙な父が今になって何か話してくれるわけでもないのだ。母にこんな事を面と向かって言えはしないが私がそう思うなら、母が残された時間を少しでも前に向く事ができる様に舵取りをする責務がある。

あまり長く実家にいても居心地が良過ぎるので、早々に実家を出た。まだ何となく実家を出る時に寂しい気持ちが湧き上がる。正確には色々と考えてしまうからなのだが、今は寂しいとしか、形容できない。時間が経つにつれて何処かにこの気持ちも置き去っていくのだろうか。

20210911-0912

近況

味気ない日々が続いている。出張先からもコロナ感染が拡大してきているから、と東京に住んでいる為に入県自粛・・と言われてしまった。その事もありここ数週間はほとんどが在宅勤務になっている。9時30分に始業し、19時過ぎまで残業をする。その後はそれまで仕事をしていた場所が、プライベートの場所に変わる。強いて言えば観る画面が変わるくらいだ。

家を出ない生活が繰り返されると段々と近距離すら外に出る事が億劫になる。徒歩10分圏内にあるスーパーもコインランドリーも億劫だ。何かをするために外に出る事に嫌気が差す。

抑えられた空間の中で人間として生きていく事は難しい事ではない。その空間の中で順応し、満足した生活として成立してしまうものだ。

とはいえ休日、有意義にしていきたい。味気ないこの日々に少しでも味付けをしなくては、と私が私自身の背中を勝手に強く押す。まずはベッドで横たわっているこの重い身体を起こす必要がある。そこに時間がかかる。午前はぼんやりとニュースを読んだり、気になる映画の予告編を観て、午後の予定を立てたり、部屋をベッドから眺めて買い物しなければならないものを考える。そんなこんなで午後になる。

重い身体、要因は連日酒を飲む様になった事が一番の要因だと考えている。その影響からか朝起きるのが大変辛くなってしまった。外で飲みに行っていた頃は、自宅で飲むなんて考えられなかったが、この1年で家で飲む量が増えた。ほぼ毎日だ。恐らく社会全般が同じ様な状況なのだろう。酒を飲むのは好きだしやめられない。それに毎日500ml1缶を寝る数時間前に飲み終わるので、問題ないはずだった。だが、ここ最近は朝起きるのが以前よりも大変辛いと感じる。酒以外にも要因はある。仕事のストレスとか、仕事のストレスとかが、まさにそうだ。単純に業務内容が自分と肌に合わない事、会社としての将来像が見えてこない事、ビジネスモデルとして果たしてこれを正として良いのかどうかといった、私個人としての倫理観との葛藤。単に上司や取引先と関係が悪いとか、もっと単純な理由だったら早く辞めているのかもしれない。私自身がこういう風に思うだけで、世間としては大した事のない悩みなのかもしれない。そもそも自分自身が絶対に正しいだなんて思わない。だからこそ、簡単に転職といった答えで良いのか迷う。

身体を起こす理由にだいぶ文字数を使ったが、休日に何もしないで一日が終わるというのだけは避けたい。とはいえ人に会う気がない。先週末、両日共に人に会ったし一人の時間がほしいというだけの事だ。

改めて夏を思うと

今年の夏。空虚な時間がただただ流れていただけだった、としか言えない。8月末に海に行ったし、夏らしい事はしたと言えばしたけれど、それだけだ。毎日が夏っぽくなくて、やっぱりコロナ禍では季節が死んでいるなあと思う。これまで私が感じていた季節というものは外で起こるイベントや友人との機会、遊ぶ中に存在していた。これまでの季節とこれからの季節の感じ方はまた異なるのだろう。でも私的には春も夏もあまり違いがわからなかったな。やっぱり、味気ない。

20210822

 

先月、かれこれ7年と長い付き合いになる写真屋の友人と会い、写真談義をする時間があった。写真以外にも色々と近況報告をする関係なのだが、実はここまでパーソナルな話をできる関係の人間は多くない。(一方的な思いなのかもしれないが)

気が付けば、初めて出会ってから7年も経っている。正確に遡ると高校で軽音楽部で他校と対バンした頃という事になるのでもっと前になるが、ちゃんと会話をし始めたのは7年前だ。同じ予備校の受験生として再会し、1年だけだがバイトも同じ所だった。そこから数えると7年の付き合いになる。

実はカメラを買った理由は彼の写真に対する愛好精神から写真の魅力を語られた事がきっかけだった。以降私は写真に魅了され、多少だが制作活動を始めたり、仕事をする事になったり、と彼の写真好きが無ければこうはならなかったのではないかと振り返ることがある。

そんな彼とは学生を終えた今でも定期的に会うことがある。「また夏に」「また冬に」と体感的には半年くらいの間隔だ。会えば話が尽きない。近況報告だと言いながらそのほとんどが写真の話だ。

そんなことをしていたら先日その友人の店で新しくカメラを買った。前々から欲しかったRICOH  GRと呼ばれるコンデジだ。2013年に発売されたGR。今では画質も機能も差がなくなりつつあるが、それでもGRを買った。近頃はスマホでメモを取るように写真を撮っていたが、それはあくまでも日常を可視化する為のものであって、特別思い入れがあるものではない。

何よりGRというコンデジは非常に出来の良いカメラだ。単焦点F2.8を備え、機能性と軽量さを兼ね備えたコンデジというだけで私を魅了した。重量にして245gというスマホと大して変わらない。この重量からマニュアル操作を為せるカメラを持つことは、私の撮影範囲を大幅に広げる事になる。これまで私が目的(意思)を持って「写真を撮る」時というのはミラーレス一眼をバッグから取り出して撮ることがほとんどであった。写真を撮るという事はやはり即効性が必要になる場面も多く、狙ったタイミングに収める事ができるかどうかといった点も重要になってくる。それにレンズを含めて重さ1kg程度のカメラを常に持ち歩くのは少々制限がある。重さが活動範囲を狭める要因になる事もあるし、「今撮らなくても良いか」と意思決定の阻害要因になる事もある。

また、コンデジには高性能を求めていない。出来過ぎるカメラはα7Ⅲで十分だ。仕事を終えて帰るとき、時間を持て余して散歩をする時、友人と何気ない時間を過ごす時、そういった時間の中で写真として時間を記録をしていく。

結論簡単に言えば「ポケットに入るくらいのカメラがあったら良いのに」という私の希望をGRは満たしてくれた。スナップシューティングを行わない自分がこの1週間で写真を撮る量が増えたのは、GRというカメラが役割補完をしてくれているからである。

GRを購入した理由は比較的価格が落ち着いている事も挙げられる。現行機種であるGR Ⅲが発売され、二世代前のこのカメラは中古で3万円だった。正直現行機種が出ているという事で安く、良いカメラを手に入れることができた。発売時期も8年前という事で機能面で現行機種に劣るのは当然かと考えられるが、簡単にそうとは言えないのがGRの魅力の一つでもある。

まず、GRとGR Ⅲを比較すると、GRⅢにはストロボが内蔵されていない。ボディのサイズや軽量化を図るにあたり排除されたのではないかと考えられるが、GRで作品撮りを目的とする私としてはストロボが内蔵されていないというのはかなり痛手であった。内蔵ストロボではなく外部ストロボとしてしまえばそれではGRの必要性がなくなり話は振り出しに戻ってしまう。それにコンデジの内蔵ストロボにある良い意味でのチープさ、みたいなものが好きだ。出来の良いものだけを生成していくのではなく、カメラの機能の限界がある中でこのカメラでできるだけのことをしていきたい。

それにストロボが排除されてはいるが、見た目も大きさも、さほど変わらない。α7 Ⅲをバッグに入れて歩いていた自分からすれば245gという軽さでも十分なメリットだ。

もう一つはWifi内蔵がされていないあまり、初代GRの出力は全てSDカード経由になるということだ。これも大して現行機種が魅力的ではなかった理由の一つだ。GR Ⅱが発売された段階でWifi機能が内蔵された。Wifiが内蔵されたことでスマホに簡単に写真を共有する事ができるのだが、不要だ。基本撮影から現像までの過程があるのでGRのデータを即効性を持って必要になることはない。ましてや作品撮りとはいえどあくまでもパーソナルフォトの一環に過ぎないので他人にすぐに見せることもない。初代GRはパーソナル且つある程度アナログな面を持ちながらじっくりと写真を撮る自分には最適なコンデジであったということだ。

 

何はともあれ、友人には感謝だ。

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