社会から自主リタイアしたい

途端に冷え込んできた気がする。感覚的には秋を通り越して冬の様な気持ちで、いつも秋服を買ったは良いもののタイミングを逃している。ここ最近の服への嗜好は、自分でも不思議に思うくらい黒い服への異様な執着とも呼べる思いがなくて、色味のある服を選んでは買い込んでいる。あれ程学生時代に黒い服が好きで、comme des garconsを買ったり、受注生産のフレアパンツを履いたり、関連する本やファッション誌を読んでいたのに、と思う。

恐らく年齢的な変化、自分自身を取り巻く環境の変化が思いの外社会人になってからの私に作用している。自分自身だけでない、他人が存在するという事実。なんとなく外れちゃいけない様な気がして、最低限そういったノーマルな自分を演出するために身なりを揃えようという自分がいる。

実際、就職をする前は「日常を剥奪されるものか」と強気に思っていたのだが、半ば強制的に拘束されるとなるとそういった意志も少しずつ削られていく。二年目で漸く仕事が慣れてくる。そんな時期でもあるが、同時に日常の剥奪とそれが普遍化していく事の恐ろしさの狭間に立たされているのだと思う。早い所、強気な姿勢を棄てて犬になるか、早期撤退をするか。

ただ、良くも悪くも拘束された分は賃金になって還ってくるので(本当はもっと成果物に対して還元されたいが...)休日に経済を回す事に必死になれている。やっぱり自分で稼いだお金を自分の為に使うのは心地良い。根本的な解決にはなっていないけど、現実逃避でありストレス解消の一つでもある、物欲の消化。

とにかく、早い所自給自足していきたい。成し遂げたい目標があった「はず」にはなりたくない。日常を完全に剥奪される前に、自主リタイアしなければ。

 

 

 

心の経年変化

結局

なんだかんだ悩みに悩んでいたにも関わらず、ギターを買った。楽器屋に行っては試奏をし、自分の耳だけを頼りに好みのフォルムや音を探る。

折角手にするのなら、ずっとこの先も手にしていたいギターが欲しかった。とはいえ、今はバンドをしているわけでもなく、特別作曲をしているわけでもない。買う目的があるかというと無いし、本当に必要かというと優先順位は低かったはずだった。ここ数年の買い物は大体が何かしらの目的があって、意味ばかりを追求していた。ギターを買うという事はそんな目的や意味が全くない、自分の欲求に素直になった結果だ。

結局気がついた時に手にしていたのはFender telecasterだった。様々なメーカーのテレキャスターを弾いてみたけれど、音の真髄はやはりフェンダーであり、自分自身の心情に素直になれるギターはフェンダーだったという事だ。

何度か試奏を重ねていくうちにリアピックアップでコードを鳴らした時のテレキャスター特有の鋭い音をいつの間にか好きになっていた。近頃までは限りなくゲインを上げた重低音のギターリフが好きだったはずなのに、最終的に手にしたギターがテレキャスターというのは心境の変化を著しく表しているし、何だか自分の変わり目を自覚している様な気がして面白かった。

高額な買い物、これまでにもカメラやレンズ、macbookといった物を社会人になってから必要経費だと言い聞かせ買ってきたが、今回のギターはこれまでの物以上に持ち帰る時の自分の心の高揚感に驚かされた。横浜駅から相鉄線に乗って、買ったばかりのギターを背負っている時の、何かが始まる感覚。ギターを買っただけで別に上手くなった訳でもないのに、不思議と自信に満ち溢れていた。10年前にお年玉を貯めて初めてギターを買った日を思い出した。

弾けなかった当初の事を思い出す事は難しい。Fコードが押さえられなかったはずのあの頃や、パワーコードだけの曲を必死に覚えてリズムなんて無視してひたすら掻き鳴らしたあの頃。漠然とした記憶だけは微かに残っているが、弾けなくて辛いとか、ギターを買ったけど挫折した、という記憶は全くない。

特別ギターが上手いとは自覚もないし、もっと上手い人は無数にいる。ギターだけは他人と技術的な面を比較する事なく、自分自身の時間に没頭できる大切な存在なのである。

shop.fender.com

ベランダにて

感傷的な言葉しか思いつかなくなってきたから、ブログを書こうと思う。Twitterに何度も書いてはツイートするのはあまり好きではない。

昨年の夏から寝床に父の部屋を借りる事にした。昨年父は夏頃から入退院を繰り返したり、家に居たいと言うものの二階には上がれなくなってしまったので一階の和室に居た。そんなこんなで父に頼んで(というのもおかしいが相当の表現が見つからない)寝床として部屋を借りた。自室は部屋の構造上エアコンが付けられないという理由で蒸し暑く、満足して眠る事ができないからだ。(後にエアコンが付けられる事を知ったが…)

布団を置いている向きからして、身体を横に向けるとベランダから外の灯りが見える。特別綺麗な景色ではないけれど、水平線に並ぶ灯りを眺めているとセンチメンタルな感情に苛まれていく。自室からは方角的にもこの景色は見えなくて、新鮮なのだ。

ベランダに出て風を浴びると共に、少しだけ父の事を思い出す。今月は父が現世を離れて丁度一年が経つ。正直あっという間に時が過ぎた印象でしかなく、ほんの数ヶ月前の出来事の様にしか思えないくらいには時間だけが過ぎていった。

時が一瞬の様に感じるのは社会との関わりとそれに伴って忙殺されていくからであるのは言うまでもない。ただ、思いの外この一年間は自閉的になり過ぎず、本当に環境と友人達に恵まれている事の有り難みを実感する年となった。父の周りに最期まで居てくれた幼馴染のおじさん達の様に、私も誰かの最期に目を向けて居られる様な人間味のある人間になりたいと素直に思った。綺麗事の様に聴こえるかもしれないが、私が人情というものをはっきりと抱いたのは父の最期からだと自覚していて、父からの最期の教えと思っている。

ベランダからの景色は、部屋に篭りがちな父だけの独占的な場所だったのではないかと思うと自然と潤んでしまう。勝手に毎夏寝床として占領して申し訳ないと心で謝りつつ、晩夏に父を思い出しながらこのベランダで父が好きだったメビウスを嗜むのだろう。(だって今もそうだから。)

ラジオが始まるまでに

今月の読書スピードについて

これ程迄に読書が捗る月はない。自分自身、読書意欲への波があって、月に2,3冊程度の月もあれば、今月の様に8冊を軽く読めてしまう月もある。ただ、後者は極めて稀だ。自分自身でも驚いている。

きっかけの一つには、紀伊國屋書店のポイントカードを作った、という事があるだろう。私は仕事終わりに飯田橋から新宿へと乗り換えの為に降車するのだが、真っ直ぐ乗り換えができた試しがない。時間に余裕のある平日は新宿で少し時間を潰し(単純に真っ直ぐ帰宅するのが好きではないだけだ)、小田急線で帰路へ向かう。大体、本を買うのは新宿で、東口近くにある紀伊國屋書店にお世話になっている。蔵書も多く、取り敢えず行ってみるかくらいの気持ちで行くと大体数冊は手に抱えて出てきてしまう。何とも新宿紀伊國屋には私に本を買わせる魔力があるのだと疑ってならない。

正直な所、読む冊数が増えたのはこれまでのジャンルと異なる為だと思う。読むにしても特別気難しい気持ちを抱かずに本を読むという事はこれまでとは全く別の感覚である。三島を読んでいると読んでいない時の私自身への心情は何処か薄暗く陰りばかりが侵食していた。良い意味では創作活動に精を出すきっかけの一つ、ルーツとも呼べる思想であったが、やはり日頃の私には何処かで私と社会が剥離された感覚から自閉した空間に存在させられたとも思える。

要するに私と小説・思想と適切な距離感を置けずにアンバランスだったのではないかという事である。一度決めたら必ず成し遂げるといった私自身のマインドが、気が付くと私自身と小説と思想との距離感を不適切な関係にさせていた。ある意味、三島文学は少々というくらいが私の生活には丁度良いのかもしれない。

 

物欲の抑え方

ここ数週間、新しいギターが欲しいと常々唸っている。テレキャスタータイプが欲しくてたまらない。色々と時間を見つけては楽器屋で物色し、探し回ってきた。

一つはやはりフェンダーが良いなと思っている。もう一つはmomoseのテレキャスターだ。どうしても地元の楽器屋で見つけた時、離してはいけないと感じてしまったのだ。このギターでカッティングを刻む事ができたら快感だ。

これもまた精神の一時的な変化なのかもしれないが、私はギターで弾くとすればメタルが好きだ。(ディストーションサウンドによる低音ギターリフを弾く事は私にとって日々のストレスの消滅や破壊的衝動を誘発させてくれる為だ。)これまでの私にはテレキャスターに魅力を感じた事もなかったので、突然現れた「新しい私」に自分でも驚愕している。

ギターを買う。これは既にバンドを組んでいない私(今後も継続的に活動する様な形態では行うつもりはない)にとって必要な事なのだろうか。幾ら趣味とはいえ、高価な買い物であるので戸惑っている。

私自身の物欲の湧き上がる瞬間を振り返って考えてみると、どうも「暇」が起因している様である。時間に余裕のある時、ありとあらゆる分野から模索して欲しい物を探している。

他の物であれば衝動に身を任せて購入しているのだが、ギターだけは購入した後の事を考えるあまり中々購入決意に至らない。「暇」な時間だけが過ぎていく。これでは本末転倒なので(買わないのに悩んでいる暇があるなら別の事をしろと言い聞かせながら)今日は時間を敢えて別の事をする様にして埋めた所、ギターの事を一切考えなかったのである。しかも全く考えていなかった新しいスニーカーについて物欲が湧き上がり、「ギターを欲しがりテレキャスターを何故欲しいと思う様になったのか?」という事すら忘れてしまった。高価な物を欲しいと思った時に立ち止まる癖は今回を持って付いた様だ。時間に余裕のある時はなるべくして別の事で時間を埋めていくと有用である。

 

そろそろオードリーANNが始まるので次回に持越したい内容

・私と美術館はどう付き合えば良いか

・少額投資で如何に自己肯定感を高められるか(化粧品投資が最も簡単ではないかということ)

・白シャツにお金をかけすぎて未だに着られていない

補償金の連呼

とことんついていない日。それは思わぬ時にやってくる。

社会の適当さと理不尽に突き付けられた事実に納得がいかずにどうしようもない気持ちになる。

社会は本当に適当だ。生真面目に生きようとこれまでの人生を歩んできた人間にとっては本当に辛い世界だと思う。

要領良く、とか少し肩の力を抜いて生きても良いとか、人生観の多様性を教えてくれる時間は平等にあったのだろうか。

こんな事を考え続けるから息が詰まる。社会の適当さを他責にしているから余計にそうなるのかもしれない。

今日入った銭湯で自分の持っていた(正確には置く場所があって置いていた。札には番号が書いてあって、各自その番号を認識した上で所持している。)札が間違って知らぬ間に取られていた。この札がなければ自分は帰れない。(間違えた相手もそうだが)

番台のおばさんに事情を話すと札を失くしたんだからその為の補償金がどうとか、もっと探してこいとか、いかにもな感じで言ってくる。自分、間違えられただけなんだけどな。私からお金取る話が先なのか。と何とも腑に落ちなかったが、探していない箇所はないかと改めて探してみる。時間が少し経った事だし、間違えた人が気がついたかもしれない。そう思ったが札はやっぱりなかった。

相手の不注意なのは確かなので、時間が経つにつれ探すのが面倒になって湯船に浸かってそれとなく時間が過ぎるのを待っていた。気がつくとさっきの番台のおばさんが浴場に入ってずかずかと探してくれている。裸の私を見つけて「まだ見つからないの?」。ここでもまた補償金の話をし始める。過失は私にあるのだろうか。なんだかもう面倒になってきて金さえ渡せば帰してくれるのか?とも思えてきたので溜息混じりに話を聞こうとするが、気が付いたら一緒に訪れた親友の方が必死になってくれていた。よくわからないけど、自分の事ではないけど、探してくれるってだけで嬉しかったのと、面倒さが増して余計に金を払う気になってしまっていた。

なんだかよくわからない「補償金」を払えば面倒な巻き込まれた問題から逃げる事ができる。そう思えば容易いものか、と思っていた。自分は逃げても良い話なら解決の手段は問わない人間なのかもしれない。反面、親友は原因を追及してくれていて、正直自分よりも苛立ちを感じてくれていた。そういう場面、姿を見ると有難いというこれまた不思議な気持ちと自分の適当さもよくわかる。

最近、社会というものは一概に「正しさ」というものを帯びていない、曖昧な空間なのだと痛感する。反面、どの道を選択してもそれは「根拠」があれば「正しさ」を帯びていくのかなと思ったりする。

正しさを自分の中に見つける事ができぬまま、不確かなままに道を選んでいくのは、適当さを自分自身に植え付けていくのかもしれない。今日、鍵が無くなった時の私はそこに正しさを見つけて番台のおばさんに面と向かって話せていただろうか。おばさんの適当な「補償金」の声に遮られて逃げようとしていなかっただろうか。これからは社会に向かって少しだけ声を大きくしてみようと思う。

私みたいになるにはどうしたら良いですか

 

健康診断を目前にして

営業先の仕事が程よい時間に終わると、新宿で来る度に訪れる喫茶で定時まで仕事をする。何度も足を運ぶ喫茶で、ここの店員って大体いつも同じなんだな、と感じる様になった。ドトールとかスタバとか、カフェチェーンだとそういった事は意識しないけど、新宿にある昔ながらの喫茶には、自然と店員の顔を覚える事ができる様になっているのだろうか。街の喫茶は(新宿は都会ですが)本当に不思議な力があって、気が付くと吸い寄せられるかの様に入ってしまっている。

こんな状況下でも店内は八割程度埋まっている。自分と同じ様に仕事をしている男性や、リモートでもできるでしょう、と思わざるを得ない様な大声で対面商談をしている人、仲睦まじく話している男女。周りを観ているとその分だけの時間と空間、世界があって、それをたったひとりで誰にも共有する事なく感じるのは少し寂しい気もするが、好きな時間であったりもする。

空腹に耐えられず、コーヒーセットでパンケーキを注文する。喫茶ならこの歳の自分でもパンケーキを頬張っても許されると思いたい。特別飾られているわけでもない、懐かしさを覚える味。家で作ると必ず胃もたれを起こすけど、喫茶で食べるパンケーキが胃に丁度良いのはどうしてだろう。

食べ終わりと同時に明日健康診断では、と思い出す。前日になって足掻いてもどうしようもないのだが、昨年前日に暴食をして見事にとある数値が要検査で引っかかってしまったのである。去年から今年でそれは解消されただろうかと不安に苛まれる中、目の前には食べ終わったパンケーキの皿。かけすぎたメープルシロップが余って皿に溜まってしまっている。今年もだめなのかもしれない。 

私にも私がよくわかりません

学生時代のアルバイトで後輩から「~さん(私)みたいになるにはどうしたら良いですか」と漠然とした質問を投げられた事がある。自分はそれまでの間、何かになろうとも思っていなかったし(後輩にそう言われるなんて思ってもいなかった。)自分は自分にしか形成できないのだから、と擦れた考えを持っていて、その時は「本を読む事かな」と逃げた答えをした事を覚えている。当然、目の前にいる後輩にはあまり伝わらなかった様で、お互いに不完全燃焼だった様に記憶している。

当時、何を伝えれば「最適解」だったのだろうか。それは今でもよくわからないままだ。

自分は確実に他人には破る事のできない分厚い武装をしていて、人格が不明確なのではないかと思う。表情も決して豊かな方ではないし、言葉に感情の温度が乗る事も少ない。ましてや理論野郎となれば酷いものだ。このブログだって強張った文章で自意識過剰のままに書いているし本性の行方を自分自身もよくわかっていない。素ってなんだろう。少しずつ崩していけば見えてくるものなのだろうか?*1

そうはいってもなんだかんだと本は自分を助けてくれる物だと性懲りもなく期待していて、本屋に行けば自分の悩みなんて手にとった本が解決してくれると本気で思っていたりするし、文字と喫茶は心を救ってくれるオアシスの様な場所だとも思っている。いつか読書会に参加したいし、コミュニティの中で互いの意見を感じ取りたい、他者を通じて一冊を理解したい、と少しずつ孤独からかけ離れていく様な思考の気配がある。いつになるかわからないけど、気が向いたら参加してみようかと思う。

 

そもそも社会は水平か

斜に構える癖。もう何年も前から自覚している。自覚しているだけあって、苦しいと思う場面が多々ある。恐らくその癖を自覚したのは高校二年の頃で、自分は音楽の中でもメタルが好きで「流行りの音楽なんかクサすぎて聴かないからな」と思っていた。あの頃は自覚なんて一切なくて周りにもメタルが好きな事を豪語していたし、なんだか浮いていたと思う。(あれはあれで幸せな時代だったのではないかとも思えるが。)

今は自覚が自分自身の思考を邪魔していて、「また斜に構えているよ」「それ、ちゃんと周りの事見えてる?」と否定的な自分が語りかけてくる。こうなると即座に心持ちが急降下する。自閉的な精神と、思考はそういった自分を追い詰める癖が要因なのかもしれない。

もうひとり、世間用の自分を用意すると良いのかもしれない。それが本来の自分にどの様に左右するのかはわからないけれど、そうする事でしか順応できないのかもしれない。そもそも社会に溶け込む事なんてこれっぽっちも望んでいないのだけれども。(また斜に構えている。)

八月に読んだ本

・「ナナメの夕暮れ」若林正恭 ※再読

・「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」若林正恭

・「社会人大学 人見知り学部 卒業見込」若林正恭

・「もしも、私があなただったら」白石一文

・「20億光年の孤独」谷川俊太郎

・「伊豆の踊子川端康成

酷暑にも関わらず日中に健康診断を行う必要性と、扇風機に指を挟んで大声を出したあの日の事で汎ゆる思考が霞んでしまっている。

 

*1:ブログはなるべく思考の言語化を意識するツールとして、頻度をあげて書いていきたいと考えている。

夏が終わる前に

この二日間、煙草を吹かしすぎたのか、はたまた昨晩酒を飲んでそのまま寝落ちした事による水分不足とエアコンのない空間による熱中症になったせいなのかわからないが頭が痛い。幸いにも熱中症による他症状はないので恐らく前者による慢性的な副鼻腔炎だと思う。自分のせいなので仕方ないが、これが起こると本当に辛い。目の周りから鼻にかけて終日頭痛に苛まれ、普段薬を飲まない自分が仕方なくバファリンに手を伸ばす。

そんな中、昨日買ったオードリー若林氏による著書「ナナメの夕暮れ」と「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読んでいる。前者はKindleで一度読んだにも関わらず、実体がない事がどうも馴染めない為に紀伊國屋書店で買ってしまったのだ。電子書籍で買って良いのは一度きりしか読まない雑誌だけに限ると改めて知る。何度も読みたい本をわざわざアプリを開いて読む気にはならなかったのだ。それに、再読というのは対象の本を意識して読むのではなく、本棚をちらりと覗いた時に気が付けば手に取っていたくらいの感覚で読むのが丁度良いものだ。こうやって本棚には読みたい本と気まぐれで読む本が混じっては積まれていく。気まぐれが働かずに未だ読んでいない本は何冊あるだろうか。買った時の衝動と、本棚からその本を手に取る時の感情が合致する迄は恐らく中身を開かずに本棚のレイアウトとして存在する事になるのだろう。

オードリー若林氏のエッセイを読んでいると、もっと自分も気分で文章を書いていいのかな、と思ったりする。いつもの様にある程度構成を考えて(それがこれを読んでくれている人にとって読みやすいものであるかというのは別の話だが…)時間をかけてブログを更新している。固まった時間がないと書けないし、過去の出来事を明確に覚えられる自信もないので、向き不向きの話をするのであれば不向きだ。ただ、構成の中で文字を残すというのは改まってブログを見てみると自分自身が読みやすくてわかりやすい。あくまでもブログは自分自身の思考整理と当時の感情記録の様な物なのでこれはこれで続けるべきなのだ。

もう少しすれば、移動先に到着する。10分間の中でどれだけの事を書けるのか、そういったチャレンジもある種大切なのだと気が付く。なるべく気が付いた事を瞬時に記録して、後々整頓すれば良いのではないか。この後の出先で気難しい事を考える必要はない。人と会うのだから、そういった話は早めに棄てておこう。