私みたいになるにはどうしたら良いですか

 

健康診断を目前にして

営業先の仕事が程よい時間に終わると、新宿で来る度に訪れる喫茶で定時まで仕事をする。何度も足を運ぶ喫茶で、ここの店員って大体いつも同じなんだな、と感じる様になった。ドトールとかスタバとか、カフェチェーンだとそういった事は意識しないけど、新宿にある昔ながらの喫茶には、自然と店員の顔を覚える事ができる様になっているのだろうか。街の喫茶は(新宿は都会ですが)本当に不思議な力があって、気が付くと吸い寄せられるかの様に入ってしまっている。

こんな状況下でも店内は八割程度埋まっている。自分と同じ様に仕事をしている男性や、リモートでもできるでしょう、と思わざるを得ない様な大声で対面商談をしている人、仲睦まじく話している男女。周りを観ているとその分だけの時間と空間、世界があって、それをたったひとりで誰にも共有する事なく感じるのは少し寂しい気もするが、好きな時間であったりもする。

空腹に耐えられず、コーヒーセットでパンケーキを注文する。喫茶ならこの歳の自分でもパンケーキを頬張っても許されると思いたい。特別飾られているわけでもない、懐かしさを覚える味。家で作ると必ず胃もたれを起こすけど、喫茶で食べるパンケーキが胃に丁度良いのはどうしてだろう。

食べ終わりと同時に明日健康診断では、と思い出す。前日になって足掻いてもどうしようもないのだが、昨年前日に暴食をして見事にとある数値が要検査で引っかかってしまったのである。去年から今年でそれは解消されただろうかと不安に苛まれる中、目の前には食べ終わったパンケーキの皿。かけすぎたメープルシロップが余って皿に溜まってしまっている。今年もだめなのかもしれない。 

私にも私がよくわかりません

学生時代のアルバイトで後輩から「~さん(私)みたいになるにはどうしたら良いですか」と漠然とした質問を投げられた事がある。自分はそれまでの間、何かになろうとも思っていなかったし(後輩にそう言われるなんて思ってもいなかった。)自分は自分にしか形成できないのだから、と擦れた考えを持っていて、その時は「本を読む事かな」と逃げた答えをした事を覚えている。当然、目の前にいる後輩にはあまり伝わらなかった様で、お互いに不完全燃焼だった様に記憶している。

当時、何を伝えれば「最適解」だったのだろうか。それは今でもよくわからないままだ。

自分は確実に他人には破る事のできない分厚い武装をしていて、人格が不明確なのではないかと思う。表情も決して豊かな方ではないし、言葉に感情の温度が乗る事も少ない。ましてや理論野郎となれば酷いものだ。このブログだって強張った文章で自意識過剰のままに書いているし本性の行方を自分自身もよくわかっていない。素ってなんだろう。少しずつ崩していけば見えてくるものなのだろうか?*1

そうはいってもなんだかんだと本は自分を助けてくれる物だと性懲りもなく期待していて、本屋に行けば自分の悩みなんて手にとった本が解決してくれると本気で思っていたりするし、文字と喫茶は心を救ってくれるオアシスの様な場所だとも思っている。いつか読書会に参加したいし、コミュニティの中で互いの意見を感じ取りたい、他者を通じて一冊を理解したい、と少しずつ孤独からかけ離れていく様な思考の気配がある。いつになるかわからないけど、気が向いたら参加してみようかと思う。

 

そもそも社会は水平か

斜に構える癖。もう何年も前から自覚している。自覚しているだけあって、苦しいと思う場面が多々ある。恐らくその癖を自覚したのは高校二年の頃で、自分は音楽の中でもメタルが好きで「流行りの音楽なんかクサすぎて聴かないからな」と思っていた。あの頃は自覚なんて一切なくて周りにもメタルが好きな事を豪語していたし、なんだか浮いていたと思う。(あれはあれで幸せな時代だったのではないかとも思えるが。)

今は自覚が自分自身の思考を邪魔していて、「また斜に構えているよ」「それ、ちゃんと周りの事見えてる?」と否定的な自分が語りかけてくる。こうなると即座に心持ちが急降下する。自閉的な精神と、思考はそういった自分を追い詰める癖が要因なのかもしれない。

もうひとり、世間用の自分を用意すると良いのかもしれない。それが本来の自分にどの様に左右するのかはわからないけれど、そうする事でしか順応できないのかもしれない。そもそも社会に溶け込む事なんてこれっぽっちも望んでいないのだけれども。(また斜に構えている。)

八月に読んだ本

・「ナナメの夕暮れ」若林正恭 ※再読

・「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」若林正恭

・「社会人大学 人見知り学部 卒業見込」若林正恭

・「もしも、私があなただったら」白石一文

・「20億光年の孤独」谷川俊太郎

・「伊豆の踊子川端康成

酷暑にも関わらず日中に健康診断を行う必要性と、扇風機に指を挟んで大声を出したあの日の事で汎ゆる思考が霞んでしまっている。

 

*1:ブログはなるべく思考の言語化を意識するツールとして、頻度をあげて書いていきたいと考えている。