ベランダにて

感傷的な言葉しか思いつかなくなってきたから、ブログを書こうと思う。Twitterに何度も書いてはツイートするのはあまり好きではない。

昨年の夏から寝床に父の部屋を借りる事にした。昨年父は夏頃から入退院を繰り返したり、家に居たいと言うものの二階には上がれなくなってしまったので一階の和室に居た。そんなこんなで父に頼んで(というのもおかしいが相当の表現が見つからない)寝床として部屋を借りた。自室は部屋の構造上エアコンが付けられないという理由で蒸し暑く、満足して眠る事ができないからだ。(後にエアコンが付けられる事を知ったが…)

布団を置いている向きからして、身体を横に向けるとベランダから外の灯りが見える。特別綺麗な景色ではないけれど、水平線に並ぶ灯りを眺めているとセンチメンタルな感情に苛まれていく。自室からは方角的にもこの景色は見えなくて、新鮮なのだ。

ベランダに出て風を浴びると共に、少しだけ父の事を思い出す。今月は父が現世を離れて丁度一年が経つ。正直あっという間に時が過ぎた印象でしかなく、ほんの数ヶ月前の出来事の様にしか思えないくらいには時間だけが過ぎていった。

時が一瞬の様に感じるのは社会との関わりとそれに伴って忙殺されていくからであるのは言うまでもない。ただ、思いの外この一年間は自閉的になり過ぎず、本当に環境と友人達に恵まれている事の有り難みを実感する年となった。父の周りに最期まで居てくれた幼馴染のおじさん達の様に、私も誰かの最期に目を向けて居られる様な人間味のある人間になりたいと素直に思った。綺麗事の様に聴こえるかもしれないが、私が人情というものをはっきりと抱いたのは父の最期からだと自覚していて、父からの最期の教えと思っている。

ベランダからの景色は、部屋に篭りがちな父だけの独占的な場所だったのではないかと思うと自然と潤んでしまう。勝手に毎夏寝床として占領して申し訳ないと心で謝りつつ、晩夏に父を思い出しながらこのベランダで父が好きだったメビウスを嗜むのだろう。(だって今もそうだから。)