ラジオが始まるまでに

今月の読書スピードについて

これ程迄に読書が捗る月はない。自分自身、読書意欲への波があって、月に2,3冊程度の月もあれば、今月の様に8冊を軽く読めてしまう月もある。ただ、後者は極めて稀だ。自分自身でも驚いている。

きっかけの一つには、紀伊國屋書店のポイントカードを作った、という事があるだろう。私は仕事終わりに飯田橋から新宿へと乗り換えの為に降車するのだが、真っ直ぐ乗り換えができた試しがない。時間に余裕のある平日は新宿で少し時間を潰し(単純に真っ直ぐ帰宅するのが好きではないだけだ)、小田急線で帰路へ向かう。大体、本を買うのは新宿で、東口近くにある紀伊國屋書店にお世話になっている。蔵書も多く、取り敢えず行ってみるかくらいの気持ちで行くと大体数冊は手に抱えて出てきてしまう。何とも新宿紀伊國屋には私に本を買わせる魔力があるのだと疑ってならない。

正直な所、読む冊数が増えたのはこれまでのジャンルと異なる為だと思う。読むにしても特別気難しい気持ちを抱かずに本を読むという事はこれまでとは全く別の感覚である。三島を読んでいると読んでいない時の私自身への心情は何処か薄暗く陰りばかりが侵食していた。良い意味では創作活動に精を出すきっかけの一つ、ルーツとも呼べる思想であったが、やはり日頃の私には何処かで私と社会が剥離された感覚から自閉した空間に存在させられたとも思える。

要するに私と小説・思想と適切な距離感を置けずにアンバランスだったのではないかという事である。一度決めたら必ず成し遂げるといった私自身のマインドが、気が付くと私自身と小説と思想との距離感を不適切な関係にさせていた。ある意味、三島文学は少々というくらいが私の生活には丁度良いのかもしれない。

 

物欲の抑え方

ここ数週間、新しいギターが欲しいと常々唸っている。テレキャスタータイプが欲しくてたまらない。色々と時間を見つけては楽器屋で物色し、探し回ってきた。

一つはやはりフェンダーが良いなと思っている。もう一つはmomoseのテレキャスターだ。どうしても地元の楽器屋で見つけた時、離してはいけないと感じてしまったのだ。このギターでカッティングを刻む事ができたら快感だ。

これもまた精神の一時的な変化なのかもしれないが、私はギターで弾くとすればメタルが好きだ。(ディストーションサウンドによる低音ギターリフを弾く事は私にとって日々のストレスの消滅や破壊的衝動を誘発させてくれる為だ。)これまでの私にはテレキャスターに魅力を感じた事もなかったので、突然現れた「新しい私」に自分でも驚愕している。

ギターを買う。これは既にバンドを組んでいない私(今後も継続的に活動する様な形態では行うつもりはない)にとって必要な事なのだろうか。幾ら趣味とはいえ、高価な買い物であるので戸惑っている。

私自身の物欲の湧き上がる瞬間を振り返って考えてみると、どうも「暇」が起因している様である。時間に余裕のある時、ありとあらゆる分野から模索して欲しい物を探している。

他の物であれば衝動に身を任せて購入しているのだが、ギターだけは購入した後の事を考えるあまり中々購入決意に至らない。「暇」な時間だけが過ぎていく。これでは本末転倒なので(買わないのに悩んでいる暇があるなら別の事をしろと言い聞かせながら)今日は時間を敢えて別の事をする様にして埋めた所、ギターの事を一切考えなかったのである。しかも全く考えていなかった新しいスニーカーについて物欲が湧き上がり、「ギターを欲しがりテレキャスターを何故欲しいと思う様になったのか?」という事すら忘れてしまった。高価な物を欲しいと思った時に立ち止まる癖は今回を持って付いた様だ。時間に余裕のある時はなるべくして別の事で時間を埋めていくと有用である。

 

そろそろオードリーANNが始まるので次回に持越したい内容

・私と美術館はどう付き合えば良いか

・少額投資で如何に自己肯定感を高められるか(化粧品投資が最も簡単ではないかということ)

・白シャツにお金をかけすぎて未だに着られていない

補償金の連呼

とことんついていない日。それは思わぬ時にやってくる。

社会の適当さと理不尽に突き付けられた事実に納得がいかずにどうしようもない気持ちになる。

社会は本当に適当だ。生真面目に生きようとこれまでの人生を歩んできた人間にとっては本当に辛い世界だと思う。

要領良く、とか少し肩の力を抜いて生きても良いとか、人生観の多様性を教えてくれる時間は平等にあったのだろうか。

こんな事を考え続けるから息が詰まる。社会の適当さを他責にしているから余計にそうなるのかもしれない。

今日入った銭湯で自分の持っていた(正確には置く場所があって置いていた。札には番号が書いてあって、各自その番号を認識した上で所持している。)札が間違って知らぬ間に取られていた。この札がなければ自分は帰れない。(間違えた相手もそうだが)

番台のおばさんに事情を話すと札を失くしたんだからその為の補償金がどうとか、もっと探してこいとか、いかにもな感じで言ってくる。自分、間違えられただけなんだけどな。私からお金取る話が先なのか。と何とも腑に落ちなかったが、探していない箇所はないかと改めて探してみる。時間が少し経った事だし、間違えた人が気がついたかもしれない。そう思ったが札はやっぱりなかった。

相手の不注意なのは確かなので、時間が経つにつれ探すのが面倒になって湯船に浸かってそれとなく時間が過ぎるのを待っていた。気がつくとさっきの番台のおばさんが浴場に入ってずかずかと探してくれている。裸の私を見つけて「まだ見つからないの?」。ここでもまた補償金の話をし始める。過失は私にあるのだろうか。なんだかもう面倒になってきて金さえ渡せば帰してくれるのか?とも思えてきたので溜息混じりに話を聞こうとするが、気が付いたら一緒に訪れた親友の方が必死になってくれていた。よくわからないけど、自分の事ではないけど、探してくれるってだけで嬉しかったのと、面倒さが増して余計に金を払う気になってしまっていた。

なんだかよくわからない「補償金」を払えば面倒な巻き込まれた問題から逃げる事ができる。そう思えば容易いものか、と思っていた。自分は逃げても良い話なら解決の手段は問わない人間なのかもしれない。反面、親友は原因を追及してくれていて、正直自分よりも苛立ちを感じてくれていた。そういう場面、姿を見ると有難いというこれまた不思議な気持ちと自分の適当さもよくわかる。

最近、社会というものは一概に「正しさ」というものを帯びていない、曖昧な空間なのだと痛感する。反面、どの道を選択してもそれは「根拠」があれば「正しさ」を帯びていくのかなと思ったりする。

正しさを自分の中に見つける事ができぬまま、不確かなままに道を選んでいくのは、適当さを自分自身に植え付けていくのかもしれない。今日、鍵が無くなった時の私はそこに正しさを見つけて番台のおばさんに面と向かって話せていただろうか。おばさんの適当な「補償金」の声に遮られて逃げようとしていなかっただろうか。これからは社会に向かって少しだけ声を大きくしてみようと思う。

私みたいになるにはどうしたら良いですか

 

健康診断を目前にして

営業先の仕事が程よい時間に終わると、新宿で来る度に訪れる喫茶で定時まで仕事をする。何度も足を運ぶ喫茶で、ここの店員って大体いつも同じなんだな、と感じる様になった。ドトールとかスタバとか、カフェチェーンだとそういった事は意識しないけど、新宿にある昔ながらの喫茶には、自然と店員の顔を覚える事ができる様になっているのだろうか。街の喫茶は(新宿は都会ですが)本当に不思議な力があって、気が付くと吸い寄せられるかの様に入ってしまっている。

こんな状況下でも店内は八割程度埋まっている。自分と同じ様に仕事をしている男性や、リモートでもできるでしょう、と思わざるを得ない様な大声で対面商談をしている人、仲睦まじく話している男女。周りを観ているとその分だけの時間と空間、世界があって、それをたったひとりで誰にも共有する事なく感じるのは少し寂しい気もするが、好きな時間であったりもする。

空腹に耐えられず、コーヒーセットでパンケーキを注文する。喫茶ならこの歳の自分でもパンケーキを頬張っても許されると思いたい。特別飾られているわけでもない、懐かしさを覚える味。家で作ると必ず胃もたれを起こすけど、喫茶で食べるパンケーキが胃に丁度良いのはどうしてだろう。

食べ終わりと同時に明日健康診断では、と思い出す。前日になって足掻いてもどうしようもないのだが、昨年前日に暴食をして見事にとある数値が要検査で引っかかってしまったのである。去年から今年でそれは解消されただろうかと不安に苛まれる中、目の前には食べ終わったパンケーキの皿。かけすぎたメープルシロップが余って皿に溜まってしまっている。今年もだめなのかもしれない。 

私にも私がよくわかりません

学生時代のアルバイトで後輩から「~さん(私)みたいになるにはどうしたら良いですか」と漠然とした質問を投げられた事がある。自分はそれまでの間、何かになろうとも思っていなかったし(後輩にそう言われるなんて思ってもいなかった。)自分は自分にしか形成できないのだから、と擦れた考えを持っていて、その時は「本を読む事かな」と逃げた答えをした事を覚えている。当然、目の前にいる後輩にはあまり伝わらなかった様で、お互いに不完全燃焼だった様に記憶している。

当時、何を伝えれば「最適解」だったのだろうか。それは今でもよくわからないままだ。

自分は確実に他人には破る事のできない分厚い武装をしていて、人格が不明確なのではないかと思う。表情も決して豊かな方ではないし、言葉に感情の温度が乗る事も少ない。ましてや理論野郎となれば酷いものだ。このブログだって強張った文章で自意識過剰のままに書いているし本性の行方を自分自身もよくわかっていない。素ってなんだろう。少しずつ崩していけば見えてくるものなのだろうか?*1

そうはいってもなんだかんだと本は自分を助けてくれる物だと性懲りもなく期待していて、本屋に行けば自分の悩みなんて手にとった本が解決してくれると本気で思っていたりするし、文字と喫茶は心を救ってくれるオアシスの様な場所だとも思っている。いつか読書会に参加したいし、コミュニティの中で互いの意見を感じ取りたい、他者を通じて一冊を理解したい、と少しずつ孤独からかけ離れていく様な思考の気配がある。いつになるかわからないけど、気が向いたら参加してみようかと思う。

 

そもそも社会は水平か

斜に構える癖。もう何年も前から自覚している。自覚しているだけあって、苦しいと思う場面が多々ある。恐らくその癖を自覚したのは高校二年の頃で、自分は音楽の中でもメタルが好きで「流行りの音楽なんかクサすぎて聴かないからな」と思っていた。あの頃は自覚なんて一切なくて周りにもメタルが好きな事を豪語していたし、なんだか浮いていたと思う。(あれはあれで幸せな時代だったのではないかとも思えるが。)

今は自覚が自分自身の思考を邪魔していて、「また斜に構えているよ」「それ、ちゃんと周りの事見えてる?」と否定的な自分が語りかけてくる。こうなると即座に心持ちが急降下する。自閉的な精神と、思考はそういった自分を追い詰める癖が要因なのかもしれない。

もうひとり、世間用の自分を用意すると良いのかもしれない。それが本来の自分にどの様に左右するのかはわからないけれど、そうする事でしか順応できないのかもしれない。そもそも社会に溶け込む事なんてこれっぽっちも望んでいないのだけれども。(また斜に構えている。)

八月に読んだ本

・「ナナメの夕暮れ」若林正恭 ※再読

・「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」若林正恭

・「社会人大学 人見知り学部 卒業見込」若林正恭

・「もしも、私があなただったら」白石一文

・「20億光年の孤独」谷川俊太郎

・「伊豆の踊子川端康成

酷暑にも関わらず日中に健康診断を行う必要性と、扇風機に指を挟んで大声を出したあの日の事で汎ゆる思考が霞んでしまっている。

 

*1:ブログはなるべく思考の言語化を意識するツールとして、頻度をあげて書いていきたいと考えている。

夏が終わる前に

この二日間、煙草を吹かしすぎたのか、はたまた昨晩酒を飲んでそのまま寝落ちした事による水分不足とエアコンのない空間による熱中症になったせいなのかわからないが頭が痛い。幸いにも熱中症による他症状はないので恐らく前者による慢性的な副鼻腔炎だと思う。自分のせいなので仕方ないが、これが起こると本当に辛い。目の周りから鼻にかけて終日頭痛に苛まれ、普段薬を飲まない自分が仕方なくバファリンに手を伸ばす。

そんな中、昨日買ったオードリー若林氏による著書「ナナメの夕暮れ」と「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読んでいる。前者はKindleで一度読んだにも関わらず、実体がない事がどうも馴染めない為に紀伊國屋書店で買ってしまったのだ。電子書籍で買って良いのは一度きりしか読まない雑誌だけに限ると改めて知る。何度も読みたい本をわざわざアプリを開いて読む気にはならなかったのだ。それに、再読というのは対象の本を意識して読むのではなく、本棚をちらりと覗いた時に気が付けば手に取っていたくらいの感覚で読むのが丁度良いものだ。こうやって本棚には読みたい本と気まぐれで読む本が混じっては積まれていく。気まぐれが働かずに未だ読んでいない本は何冊あるだろうか。買った時の衝動と、本棚からその本を手に取る時の感情が合致する迄は恐らく中身を開かずに本棚のレイアウトとして存在する事になるのだろう。

オードリー若林氏のエッセイを読んでいると、もっと自分も気分で文章を書いていいのかな、と思ったりする。いつもの様にある程度構成を考えて(それがこれを読んでくれている人にとって読みやすいものであるかというのは別の話だが…)時間をかけてブログを更新している。固まった時間がないと書けないし、過去の出来事を明確に覚えられる自信もないので、向き不向きの話をするのであれば不向きだ。ただ、構成の中で文字を残すというのは改まってブログを見てみると自分自身が読みやすくてわかりやすい。あくまでもブログは自分自身の思考整理と当時の感情記録の様な物なのでこれはこれで続けるべきなのだ。

もう少しすれば、移動先に到着する。10分間の中でどれだけの事を書けるのか、そういったチャレンジもある種大切なのだと気が付く。なるべく気が付いた事を瞬時に記録して、後々整頓すれば良いのではないか。この後の出先で気難しい事を考える必要はない。人と会うのだから、そういった話は早めに棄てておこう。

真夜中に思う事

 

真夜中ですが

真夜中1時。横浜にあるスカイスパ YOKOHAMAのカプセルホテルに泊まっている。泊まる理由は特にない。この状況下なので遠出もできず、連休が気が付けば終わり、何もしないままに過ぎていく事に嫌気(限界)が差し、いつもの親友達と僅かな時間を過ごしている。

この時間になれば皆寝るので、これからが自分の時間といったところだ。iPhoneが(というよりアプリ-radiko)毎週リアルタイムで聴いているオードリーオールナイトニッポンの放送開始の通知をしていたので急いでリクライニングスペースで聴こうとしているのだが、どうやら明日の様だ。よく考えてみれば今日は金曜日の25時なので明日で間違いないのである。焦ってしまったがそういう事なので、先週聴いたはずの回をもう一度聴いている状況だ。

ラジオを聴く、というよりはこうやってブログを書く時間や読書をする時間のお供として垂れ流しているので、あまりラジオに対して集中して聴いている感覚はない。この時間に孤独に何かをするよりも、誰かの声、特に好きな人の声があるというだけで心強い。

先日のオンライン飲み会で

前段が長くなってしまったが、サウナに入っている最中に先日学生時代にアルバイトで知り合った同期達とオンライン飲み会をした事を思い出した。オンラインだろうがオフラインだろうが、特に変わりなく話ができる。仕事の話ばかりするのでお互いの恋愛観や私生活についてあまり踏み入った話がなかった4年間というのは、改めて考えてみると何だか不思議な感じがする。なので大抵は冒頭恋愛観や私生活の話をしようとするのだが、互いをあまりその部分で知らない為に、結局は現職の事について、もしくは当時のアルバイトの事について話すだけで終わる。4年間そうだったのだからそれはそれで十分な関係なのだが、何だか知らない事の方が多いのに仲が良い、信頼しあっているという関係性が成り立つのは今後無いなと思う。

上記に記載した様に近況報告よりも過去の話ばかりなのだ。近況報告(主に恋愛や結婚願望といった比較的自分には遠い未来の話の様なもの)をしようにも、この状況下なので中々に進捗が無いのが事実である。恋多き親友もいつもなら得意気に話す姿も今回に限っては見られず、淡々と得意な司会進行をしていただけだった。

何が言いたいかというと、この状況下で汎ゆる事柄について「進捗を把握」するにはどうしたら良いのかという事だ。何だか無意識の内にも行動をしていればそれなりに進捗が付いてくる「これまでの世界」よりも「今の世界」は息苦しいものに成り代わりつつあるわけで、あまりプライベートに仕事の様な強いた事はしたくないのだが、やっぱり目的を設定してそれなりにそれに向かっていくしかないのだなと感じている。7月、8月に一体自分は何をして、何ができたのか。取り急ぎ下記にブログという公の場を用いて記録していきたいと思う。

7月から8月現在にかけて起こした行動について

サウナ・スパ健康アドバイザーになった

好きすぎて表記の認定を得た。正直資格とは言えないので協会からの認定程度と思っている。

サウナ・スパ健康アドバイザーとは、公益社団法人 日本サウナ・スパ協会が実施しているサウナーの為の基礎的な知識取得を目的とした、サウナーへの入口である。(サウナーの定義というのはそもそも無いし、サウナ好きな人であれば上記のものを得なくてもサウナーであると自称して良いと思う。)

何はともあれ、サウナの身体への効果をはじめ、身体の汎ゆる部分に存在するツボに期待できる効果、サウナ入浴中の万が一に備えた応急処置方法といった、正に基礎中の基礎を改めて体系的に理解する機会となった。上位資格のサウナ・スパプロフェッショナルもあるので、ゆくゆくはこちらの認定も取得する予定だ。

あとは対象施設が若干割引が効くとのことで、僅かばかりだが月に何度も訪れるサウナーにとっては有り難い限りである。

知人にサウナについて話す時の小ネタにもなると期待して、この認定を持ってサウナを促進していけたらと考えている。

www.sauna.or.jp

 

オードリーさん、ぜひ会って欲しい人がいるんです。を視聴しはじめた

もはや目的でもなんでもないのだが、私はオードリーが好きだ。少し前に若林氏が書いた「ナナメの夕暮れ」を読んだのだが、この時からオードリーというコンビに好きであるという気持ちに加え、他のコンビに比べ物にならないくらいの親近感を覚え、大ファンの域に達している。若林氏は等身大の姿で番組に出ているし(特別大きく自身を投影している様には見えないし、時折見せる卑屈な姿が私にとってはたまらない。)、春日氏に関しては私にはない、常識を脱したギャグ(決して面白いとは言えないのだが、面白さを狙った後に生じる独特の空間創りは他のボケにはないものである。)が好きでしかたないのだ。その中でも表記の番組はオードリーと一般人が交わる不思議な空間が面白く、過去8年分の回を観ようと必死になっている。*1

勝手な親近感もあり、オードリーの二人から何か自分に足りない部分を学ぶ事ができるのではないかと思い、必死になってコミュニケーションの極意をこの番組から吸収しようとしている限りだ。

 

ここ最近の思考について

コロナ第二フェーズ(緊急事態宣言解除以降)に突入してからのコロナ禍において最も脅かす存在は紛れもなくヒトだろうと常々思わされている。確証のない情報、感染者に対する無差別に抹殺していく絵面、と書けばキリがないが冷静さやメンタルバランスに支障が出るとヒトは集団生活の中で簡単に崩れていくのだと知る。昼間に家に居ることが増え、ワイドショーなんてものを久しぶりに観ていたが、内容と予定調和的な進行についてあまりにも酷いなと思わされる事ばかりであった。改めてヒトは案外脆いという事を忘れない様にしたい。そして、この生活様式の中でどう考えてもSNSが精神衛生に対して従来以上に悪影響を及ぼしている。他人の行動や発言、本当にどうでも良いという気持ちを持って、自分自身の磨きに投資をして自己肯定感を高める事こそが、最もな生活なのかもしれない。と私は思う。他人は知らんくらいの気持ちがないとやっていけない。

と、まあこんな事を考えられるのは、9連休にもなる大型連休のおかげだ。会社が指定した有給取得日を含めて毎年盆の時期は大型連休となる。今年はどうも大型連休といっても「不要」に思えてくる。会社の先輩も「4連休が2回あったほうが良い」と駄々をこねていた。贅沢なのかもしれないが、このご時世なので自分もそう思ってしまう。 

海に行きたいと思う時について

いつも通りといえばいつも通りなのだが、大型連休を迎えるとたちまち「海に行きたい」と考え始める。状況も状況なので遠出と集団を避けるべく私自身が住む県の中でも西側にある海岸へと向かった。

電車とバスに揺られて一時間半。正直移動手段として自動車の方が早い。最近になって改めて(漸くといった表現が正しい)ペーパードライバーを脱出しようという気持ちが強まっている。

県内となるとやはり公共機関だけでは難しい。時間も縛られるし、マイペースには動けないものだ。

それは写真を撮るという事よりも日々凡ゆる事象から解放されたいという気持ちが先行している。陸地の先端に立ち、潮の満ち引きを感じながら、波の力強さや纏わり付く様な潮風の匂い。そして天候によって表情を変えていく私にとっての「海」の顔。漸く一人になり、誰にも話しかけられる事なく、やっと無心になって自分の内側と話しかける事ができる。そんな思いの中でひたすら海と自分の内側に話しかける様にして写真を撮り続けている。

近い内に、海を対象とした写真・映像群をとりまとめた作品を制作する試みだ。現状素材が不足しているので構想段階ではあるが、核となるコンセプトは決まっているのであとは心の持ち様と行動力の維持であると思う。

 

最後に

なんだかんだと久し振りに長々と文字を書いてしまった。静かな空間にラジオだけが寄り添ってくれる深夜帯の有り難さを感じる。夜行性を脱せないのはこの深夜帯の中毒性を感じているからだと思う。また今日は書いている場所も深夜帯に文字書きを促進させる様な場所だからなのかもしれない。自宅ではやっぱり集中できない性の様で、外出している時の自分が本当の自分なのだなと思う。

それに今日のサウナは格別であった。スカイスパYOKOHAMAの大浴場は横浜の夜景を眺めながら整う事ができるのだ。(そのうち一部の窓からは富士ゼロックスのビルがそびえ立つ姿を見られる、私にとっては特別な建造物だ。)

東京でサウナに入るのも都会の喧騒や日々の疲労を取ってくれるもので良いものだと思うが、横浜は神奈川県民であるが故に情が湧く。小さな頃に訪れる機会の多かった横浜をまた別の形で眺め、幼少の頃を回想する。時々そんな時間があっても良いと思える程に、スカイスパYOKOHAMAから見える景色というのはノスタルジーな感覚を与えてくれる。

もう少し早くにサウナを知っていたらと思う反面、サウナ程大人の贅沢と感じさせるものは中々ないのではないだろうか。学生の頃よりも遥かに社会人になってからのサウナには魅力を感じている。身体の効用に加え、そういった感覚を与えてくれるサウナにこれからも私は虜になっていくのであろう。

www.skyspa.co.jp

 

*1:※この為だけにhuluを契約して観始めてしまった。

靴紐が緩む時

晴れ模様の作り方

久しぶりの快晴日だということに、月並みだが心も晴れやかになっている。梅雨が入ってからだろうか、ずっと心の下がり具合と気圧の影響か体調も優れなかった。風邪を引くよりも重たい時間が延々と流れていた。同時に5月末に開けた緊急事態宣言の影響か、仕事が動き始めており、自我を忘れるくらいに平日は多忙であった。入社二年目という事も大きい。頭では解っていたとしても身体が仕事を覚えるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

それでも平日の夜に余裕のありそうな日は(無い日も無理をしたこともあったが)、なるべくプライベートの時間を設けようとした。社外の人と食事をすることは恐らく自分も相手にも有意義であった事だろう。そう思いたい。

精神維持の為の棲み分け

土日が休みの自分にとって週休2日の使い方を大切にしている。2日とも誰かと会っていては疲れてしまうし、2日とも仕事以外の人間と会わないというのも、何だかとても退屈で心が廃れてしまう。

今週は、そういう「自分なりの休日」としては満足している。土曜日は大学の頃に出会った先輩とサウナに行ったし、身体もいつもよりもずっと軽い。今日だって日曜日にひとりで近くの商業施設でカフェをはしごしては本を読んだり、こうやってブログを書いている。それにひとりで外に出る事で得られる視覚や聴覚がある。それを自分自身で還元できているかは別だけど、時間の流れがいつもよりも緩やかで有意義なものであることに変わりはない。

自分の内側と対話する事が多忙極まりない平日にはできない事なのだから、休みの半分くらいはこんな時間があったって良いだろう。

僅かな楽しみ

現在進行系ではあるものの、先日大阪にある国立美術館で購入した大量の本達を読む事がここ最近の楽しみの一つである。後で買えばよかったのかもしれないが、本は「その場の出会いから」なんて自分で決めつけた信念があるので帰りの荷物にはなってしまったが好きなだけ買い込んだ。本は衝動性に任せて買うくらいが丁度良い。買う意味なんて読み終わった自分にしかわからないのだから。

最近は趣味嗜好への体系的な学習を心がけている。何事も感覚で解った気になっている自分が昔から好きではない。簡単に言えばサウナがどの様に身体に作用するのかだとか、雑談をする上でのコミュニケーションの取り方、反応、といったところ。こういうのって他人にひけらかすものではなくて、あくまでも「自己満足」の世界だ。決してサウナに入っている友人や周囲の人へうんちく語りをしない様にしなければならない。同じベクトルで趣味を楽しめる人、そうでない人と理解をする事はこういった趣味への学習を行う上で留意しなければならない。

もしも当ブログがなかったら

ブログの有用性について考えていきたい。私のこのブログは誰かに見て欲しくてやっているわけでは無い。この辺りは過去記事でも同様のことを書いている。当ブログは匿名である為に事実の具体性に欠ける。なるべく自分の内側に正直さを持ちたいという思いの上で書いている。

untruth-rx.hatenablog.jp

 

どこかに自分が正直にいられる場所が無いと辛い。その集積がこのブログへと变化するわけなので時々過去記事で何を書いていたのか振り返るとその殆どが重く苦しい事ばかりだが、寧ろ他の場所(実生活や実名での行為)と上手く付き合いができているのだからブログは自分にとって意味を成して機能しているといえる。大学四年の少し実生活から離れたくなったあの頃にはてなブログで文字を書く事にして良かった。

 

その他諸々の何か

・あまりに忙しすぎて他人と食事をしない限り何を食べているのかもわからない。先日セネガル料理を吉祥寺に食べに行ったが誰と食事をするかというのは本当に大切な事だと実感した。なるべくひとりでいることは避けたい。忙しいと感じた時は特に。

・感覚的にiPad Proが欲しい。Macbook Proとのいまいち棲み分けがわからないが、サブディスプレイとして、外出用の閲覧ツールとしてだろうか。独立したiPad Proの利用方法をご教示願いたい。

・YOASOBI「夜に駆ける」に嵌っている。理由は解らない。たまに普段とは異なるジャンルに嵌る時がある。自分の価値観と心の変化を感じる。全く触れなかったものに初めて触れた時に良いと思えた気持ちを大切にしたい。

youtu.be

・悲しくて仕方のない時程、揺れ動く自分の心をきつく縛らないといけないもの。

 

無題

誰かの心に近付けば近付く程に、自分を見失う。

自分を自分で一番だと思える瞬間は何処にあるのか。

一体、誰かの心に入ろうとする自分は果たして本当の自分なのか。

ますますよくわからなくなってくる。

梅雨が長過ぎて鬱になる。