二面の「私」

noteは実名を持って書いている。以前(というより並列しているが)はてなブログに思考整理と称して汎ゆる事物や本や芸術に関して自身の捻くれを利かせて文字書きをしてきた。

匿名ブログであるはてなブログで書いていた最大の理由。それはテーマという思考を緊縛する世界線で文字を書く事は「誰かに理解される事が全ではなく、そこに充足感を得たいと思っていない私」にとって最悪の精神の居場所であったからであり、はてなブログという「疑似自由空間」に身を置くことで私の、私自身でもよく解っていない「思考」をなるべく文字を書く事で明瞭な物へと变化させたかったのである。

しかしnoteにおいて私は実名で書くという制限空間の中で文字を書いている。これが非常に苦しい。胸に何かを詰められたかの様に苦しい。何が苦しいかというと、実名を持つ事によって文字に対する責任を伴い、書いた瞬間に独りで歩いていく文字を後ろからじっと見つめて生活していく事が苦しい。時にそれは飼い馴らした愛猫に対する愛着精神を抱く事もあれば、別れた異性に対するある種の嫌悪の様な感情を抱く事もある。殆どは後者である事が多い。

ブログに限らず実名を使って運用しているSNSもそうだし、実世界での私が存在している空間においても同様の感情を抱く場面は多々存在する。上記だけでは「実名を持ってSNSを運用しなければ良い」が最適解の様に思えるが、実世界でも同様なのだからどうしようもないなという気持ちだ。

話を冒頭の「捻くれを利かせた文字書き」に戻したい。捻くれを利かせているのは意思ではなく根っからの性分によるものであった。私は社会、他人、事象といった、ありと汎ゆる事物に対して斜に構える癖がある。それを自覚しながら匿名性に頼って(またはそれに責任というものを擦り付けながら)書いてきた。斜に構える事が、何か善し悪しを決める様な事はないと思っているが、自認する事によって私に内包する感情は「苦悩」へと変わった事は確かである。また、斜に構える事を促進させたのは紛れもなくSNSという存在による「無意識の情報収集」であろう。*1根拠のない発言や社会情勢に対する無責任な言動と心理。私自身に必要のない他人の近況と私のインスタントな思考整理。頭では理解しているつもりだが、SNSは無思考に使う人間が一番上手な付き合い方であると考えている。私はいつからかブログをはじめとするSNSにおいて文字書きをすることが辛いと感じる様になっていた。

そんな私の煩悩を打破した一助に「若林正恭」という人間が存在する。思えば小さな頃から好きな芸人、コンビはと考えると決まって「オードリー」だった。また、私の好きな番組の一つに「オードリーさん、ぜひ会って欲しい人がいるんです。」がある。中京テレビを中心に全国で放映されている本番組ではオードリーが会いたいと思う視聴者に出演してもらい、特技や出演者の苦労話を探っていく番組だ。この番組には漫才でもバラエティでもない、二人の人間性を垣間見える瞬間がある。例えば、「他人の作った料理は食べられない姿」とか「明らかに苦手な性格の人間には前向きではない話の展開をしている姿」である。他にも多々あるが、妙に若林氏には興味を惹かれていた。(市野瀬アナと意思衝突の回は何度見ても面白い。)また、先日放送されていた「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」では、「異性と二人きりで食事をする際には話の銃弾を7つ程込めて臨む」というシーンに親しみを抱いた事もあった。

ここまで若林氏に興味と勝手な親近感を抱いた私は、氏がエッセイを出版していた事を思い出した。調べてみると数冊出版しているが、中でも今回読んだ一冊は「ナナメの夕暮れ」だ。本書では若林氏の40代にさしかかるまでに連載された、エッセイの集大成である。下積時代の尖り捻くれた若き氏や、事物に対する否定的感情を生まない為の氏の努力。40代になるまでに持ち込んでしまった氏の苦悩やナナメ目線の要素がふんだんに詰まっている。

books.bunshun.jp

価値下げによる自己肯定は楽だから癖になる。ハロウィンの仮装、バーベキュー、海外旅行など、それらをSNSでコソコソと価値下げ攻撃をしていれば、反撃を食らうこともないし自分がそういうムーヴメントに流されない高尚な人間のような気分も味わえる。ぼくの場合、高校を卒業してから物事に対する価値下げは加速していった。大学でサークルに入ること。学園祭に本気で取り組むこと。海外に一人旅に出ること。告白すること。何でも〝みっともない〟と片付けて、自分は参加しなかった。そうやって他人がはしゃいでいる姿をバカにしていると、自分が我を忘れてはしゃぐことも恥ずかしくてできなくなってしまう。それが〝スタバでグランデと言えない〟原因である。誰かに〝みっともない〟と思われることが、怖くて仕方がないのである。そうなると、自分が好きなことも、他人の目が気になっておもいっきり楽しむことができなくなってしまう。それが行き着く先は「あれ?生きてて全然楽しくない」である。他人への否定的な目線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。*2

上記引用は私が本書を読み進める上で最も印象に残った一節である。価値下げによる自己肯定は現代における病に近いものではないだろうか。それなりにSNSを使っていれば他人の行動や発言に対して「ナナメ」に見ていたり、直接言わずとも対象の価値を心の内で否定し「価値を下げる」事で自己肯定感の充足から高尚な人間になった瞬間があるのではないだろうか。

何か自分自身で行動を起こして満足を得るよりも、他人の行動に対して共感や批判をする事による「インスタントな」満足感は得る事が容易い。また、思考を凝らす時においても「共感」に縋る事であたかも自分の言葉の様に手に入れる事もできる。そんな無思考による質量の無い言動に対して批判するつもりは一切ないという事はここに記しておきたい。

話は匿名性のブログから実名を持った本ブログを運用する理由へと戻る。私が実名を持ってブログを書く理由は、発言に質量を持たせたかったからだ。私は「実名を持つ事によって文字に対する責任を伴い、書いた瞬間に独りで歩いていく文字を後ろからじっと見つめて生活していく事が苦しい。」と前述したが、それは見ている他人がいると錯覚しているからであって、実際には見ている人なんて誰もいないくらいの気持ちで自身の思考と対峙し続ける事が、発言への質量を含ませる事へと繋がると考えている。匿名性に縋る事なく、私は実世界における事象や事物に対して私自身の思考が、どの様に私自身にはたらきかけるかを追い求めていきたい。それが本ブログの最適解であると考える。

私において20代前半という年齢がまだ「尖りや世間に転がる事物を斜めに見る年齢」だとしても、自認した瞬間から苦痛であり続ける。同時に日々それを打破したい/自身をアップデートしたいという願望が存在する。若林氏はそれを40代になるまで気が付かなかったと述べ、例え20代に起こる過去の出来事が「今に活きている後悔」だとしても本人とって他人には理解を得られない相当の苦悩があった事も読み取れる。若林氏の等身大の言葉と経験で書いた本エッセイはその集大成であって、今その苦汁を嘗める私には方向性を問い正してくれる良いエッセイであった。このエッセイに出会えた事に感謝したい。

*1:もう一つ「孤独」なんて存在もあるが、これは大切に心の内にしまっておきたい。

*2:若林 正恭. 「ナナメの夕暮れ」-「ナナメの殺し方」より。