スマートフォンケースを販売し始めました

 今週は3連休なので、たまにはゆっくりしようと予定のない土曜日を過ごしていた。定期的に自分自身の行動を振り返り、何が足りない生活なのか思い考えるのも良いだろう。喫茶に籠もると何処からか、様々な話が聴こえてくる。仕事のギャランティの愚痴や、中年夫婦の雑談。どこにでもあるような女性同士の会話。どれも街を歩いていれば聴こえてくるような会話なはずなのに、いつも通っている喫茶に籠もるとその話すら自分自身を取り巻く重要な存在になろうとしている。喫茶に籠もって作業をする理由はここにある。異様とは言えないこの何気ない会話が、突然自分にアイデアを与えてくれるのだ。珈琲が美味いだとか、煙草が吸えるだとか、そんなことよりも喫茶に惹かれる理由はこれなのだ。

 とはいえ時間が有り余っていたので月曜日の作品撮りのために新宿に材料を買いにでかけた。頭の中でイメージを考えているだけでは理想の写真を撮ることは難しい。材料を見ていると、様々なアイデアに可能性が結びついてくる。作品撮りのための出費は惜しまない。可能性をそんなところで失うわけにはいかないのだ。

 しつこいようだが、MacbookProを購入してから思った以上に写真に対する効率性が上昇した。カメラを持って街に飛び出す。写真を撮る。喫茶に籠もって編集をすることができる。リュックを背負えば、全てが完結するような。そんな気持ちだ。この一連の作業がMacbookPro一つが解決してくれたと思うと、もっと早く買えば良かったと少しだけ自分に対して後悔の感情を抱く。

 さて、本題。先程まで、自分自身が作ったスマートフォンケースを買ってくれた友人と会っていた。彼女はAndoroidということで、ケースを付けずに使っていたようだ。そんな時、自分の作ったケースを購入してくれた。思った以上に気に入ってくれたようで嬉しい。これまでかなりケースを作ってきたが、今回のケースは好評で、知人を含め買ってくれた人も多く、自分としても嬉しいところだ。ゴリ押しのような宣伝はあまり好んでいないが、是非スマートフォンケースを探している方は一度だけでも良いので下記リンクのストアを覗いてみて欲しい。今後もケースをはじめとするグッズを販売していくので楽しみに待ってくれたらと思う。

ryomak.thebase.in

 

f:id:untruth_rx:20190713211006j:plain

本日購入してくれた友人のスマートフォンケース。参考までに。

 

MacBookProを買ったのですが

 一週間ほど前に、MacBookPro 13inchを購入した。いつになっても新しいガジェットを買うと心がわくわくする。少年のような心を思い出す。欲しかったゲームをやっと買ってもらえたあの頃のような。

 購入を決めたのはリンゴマーク欲しさだけではない。なんだかんだと作業の効率を考えていると、馴染んでいるWindowsよりもMacだった。キーボードの配列や、キーに慣れていないからか、文字を書くには少し慣れるための時間が必要となりそうだ。

 自分は写真を撮っているので編集したり制作したり、SNSにあげたりと、PCとは切り離せない生活を送っている。これまでは、写真を撮ったら自宅に帰ってwindowsで編集し、icloudにアップしたものをテストで送るという工程を踏んでいたので、多少手間のかかることをしていた。作業として不可能ではないのだが、どうも時間が無駄な気がしていた。そのため、20万強の買い物は少し勇気のいる買い物だったが、思い切って決断・購入をした。

 使ってみると、20万の買い物をしたことなんて、すぐに忘れてしまった。LightroomPhotoshopも並行して作業ができるし、13inchは15inchと比べても軽くて携帯性に優れている。前述したキーボード云々を除けばかなり良い。

 今も新宿の喫茶店で写真を編集している。友人との待ち合わせの時間までに作業ができてしまうのは大変助かる。何より、iPhoneに写真を送っても不便なく写真の仕上がりを確認できることが、一番購入してよかったことかもしれない。

 ロケハンした先にいた野良猫が可愛かった。以上。 

f:id:untruth_rx:20190706183656j:plain

 

小田急線は本日も静かです

 新宿発のロマンスカーに乗って帰っている。仕事の関係で千葉に向かっていたのだが、途中から乗り換えや立ちながらの移動に疲弊し、交通に課金をあまりしない自分が、初めてロマンスカーに乗っている。意外と乗ってみると車内は静かで快適だ。普段移動中に見ている小田急線の景色も、横目で眺めるとなんだか違った景色に見える。

 本当は、このロマンスカーに乗って仕事をしようと思っていた。なんだかんだと入社して3カ月が経ち、仕事が振られ始めている。なるべく仕事は時間内で完結させたい。僅かな休暇しか、現状与えられていないから。土日は何もしたくないし、それなら土日を守り切ろうと慣れていない今は平日の夜を有効に使いたい。日々変わりゆく社会に対して目を向けながら日々勉強と唱え続けて生きていく。

 外回りをしていた先日。仕事の関係で渋谷に赴いた。少し前まで遊んでいた街が違った街に見えた。すれ違う人、街並み、広告、全てが客観的に見え、これまで自分自身を中心にするかのように取り巻いていた其々も、随分と遠くに行ってしまったようだ。賑やかな街も何だかその日だけは静かであった。

 ロマンスカーが走る音。サラリーマンが「疲れた」と言えない代わりに鳴る缶ビールの開栓音。同じように仕事を続けるPCの音。巷ではASMRなんて言うけれど、小田急ロマンスカーはそれ以上の心地良い音を届けてくれる気がした。同じ時間に帰る人々は、きっと同じ気持ちを持って目的地に向かっているのだろう。570円の価値は、ここにあったのだ。

 心がくたびれているからだろうか。所謂失恋という感覚が自分自身に何も問いかけることなく、事実だけを知らせて過ぎ去っていった。台風が過ぎた次の日のような、あの朝起きたら窓から太陽の光が力強く差し込んでくるような、そんな心の晴れ晴れしさすらある。「あの日」と「今」といった狭間に亀裂だけを残して、事実を迎えただけなのか。

 そんな状況の時において他愛もない話ができる友人がいるということに改めて自分自身が救われているということを実感する。終電間際まで一緒に江の島に行って波の音だけを静かに聴いてくれる友人。きっと大切にしなくてはならない事は、こういう事なのだろう。でも今の自分は、何も大切にしなくていいと思うし、何も大切になんかできない。気が付いたらそんな存在、できていると思う。そのくらいでいい。

 そういえば、今年に入ってからとあるバンドが1年という限定された期間を持って復活することになった。deadman。13年も前に解散しているバンドだから、知らない人の方が多いかもしれない。ボーカル 眞呼の派手なメイク。それとは正反対とも言える他メンバーのビジュアル。そして音楽はオルタナティブで、デカダンスで、そしてaieのギターリフが相まって酷く悲しい。とにかく、何でも良いから”Follow the night light”を聴いてみてほしい。

喪失感を抱いた人間を描くこの曲は、所々でまだ希望を抱いているような、他人をもう一度だけ信じてみようと何処か期待をしているような、明るさがある。

人に裏切られ、それでも尚、もう一度。そんな気持ちが少しでも過去に存在するのなら、この曲は聴いた人の中で輝くのだと思う。

youtu.be

 

狭間

 一瞬にして、見る世界が変わった。社会人になって早くも3か月。電車にいる学生はかつての自分の姿であると思うと、その3か月という期間すら、大昔であったかのように感じてしまう。時間のある彼らを見ては羨む感情を持つと思っていたが、そんな感情は今のところ一切持っていない。見る世界が変わるだけで、こんなにも違うものなのか。

 社会に身を投げ出されてからというものの、自宅と会社を行き来しては眠って起きる。その繰り返しが続く。規律に従順な生活、目の前の事柄を淡々とこなしていく日々、上司との付き合い、マナー。挙げればキリが無いが、そんなことでいつしか生活は埋められてしまうようになった。わかっていたけれど生活は簡単に変えられてしまった。

 5月末に新しい生活からか、身体を壊した。大袈裟かもしれないが、疲労困憊の中で生きていた。普段から気を張って生きているからか、組織という集団の中で息をするには自分は窮屈で苦しいのだと身を持って感じた。

 大学を卒業する前、社会人になる前、周囲の友人にはよく「会社に入ると、君はそこで馴染んで二度と戻ってこないのではないか。だから会社に入るなんて辞めて、好きなことをして一緒に頑張っていこうよ。」なんてことを言われていた。それは自分にとっても確かで、本望だ。そりゃそうだ。だが、人生という括りで考えてみると一度は会社に入って、広く学んだほうが良いと思った。今の段階で、自分がその好きなことだけで生活をしていける保証はない。

 自分でも重々理解しているつもりだが、保守的な人間なのだと思う。一つの事象に対して「起こり得る最悪なパターン」を仮定し、解決策をあらゆる方向から考える。簡単に言えば一番安全に回避できる案を見つけ出すまでは行動に移すことはない。良い方向に動くこともあれば、うまくいかないこともある。好きなことで生きていくにはあまり向いていない性格なのかもしれない。

 その為にも自分自身を変える為には、まずその保守的な性格をなるべく仕事をする上で払拭していこうと思った。だから会社という組織に、内心うまくやっていけるかわからないけれど入ることを決意した。

 すぐに独り身で生きるような世界を選択することもできただろうけれど、今の世界で見る人や物、これもまた自分の知らない世界が広がっていて面白い。唯一自分の好きなところと言えば、知らない事柄に対して面白いと感情を抱くことができる所だろう。もう少しこの世界も足を踏み入れれば、違った景色が見えるはずと信じ、自分自身で現状怠惰な生活を掻き乱していけたらと。

 

 

前を向いて歩かない街、渋谷

 近況報告

 一ヶ月振りくらいの更新になる。ブログを書く暇がなかったのかというとそういうわけでもないが、長々と書く気力はなかった。自由月間ではあったが。まあ労働を辞めたので2月に入ってからの精神衛生状況は非常に良く、生活的にも自分の集中したい分野だけに注力することができていて快適だ。元気です。

 1月、120時間弱の労働をこなしていたことを先日届いた給料明細から発覚し、驚いた。予定していた二つの旅行のための旅費を一ヶ月で稼ぎ切ったのだから改めて凄いなという気持ちである。当初より旅費が必要になりそうなので、そこだけが怖いけれども、その時はその時でしょう。ともかく再来月から社会人になるわけですが、それ以上の労働をするわけで今後の自分の精神衛生は一体どうなることやら。本当に社会人になるということは暗闇にいるような感覚でしかなく、不明瞭にも程がある。怖いなあ。

 つい先ほどのことだが、髪を染めた。実は1月頃から常々このことを楽しみにしていたわけで、「絶対に派手な色にしてやるんだからな」というこれまでの学生生活において縛られていた「外見の自由」を取り戻すような思いでいた。結果としてはハイトーンのグレーアッシュ(赤みが強すぎてグレーにならなかったが)にした。髪色の変化というのはかなり自分自身を変えてくれる。もっと早く気が付いて、もっと早く行動に移すべきであったのかもしれない。髪なんて一番自分の目では鏡や写真以外で確認できないのだから、と諦めていたかつての自分を殺したい。今回のカラーで殺したわけですが。

 一ヶ月だけの自由。労働にも縛られず、思うが儘に生きていく。この先にこんな環境はどう頑張っても作る事はできない。ひたすら小説や詩を読んでは自閉した自分との対峙。その先に生まれる表現したいという想い。確実に精神は擦り減っていく。それが心地よく、生きている事を自認する唯一の方法でもある。

 さて2月も終盤。3月も思い切ったことしていきましょう。その中で会える人とは縁があるわけなので一つ一つ大切にしていきたいところ。

不健康万歳

 

ブログの最重要性・日常を攫むこと

思考整理という点でブログを書くことは非常に大切であると言える。例えば日常の中で起こる事象の数々、それらを記憶として瞬時に捕えていく。捕えていく、これには何だか一点一点を大切に見つめているといった意味合いを覚える。写真においてもそのようなことは同様に言える。写真は日常的に起こる「事象」を狙うことも一つの使命であると考え、写真を常に撮るという意識の中で自我を存命していかなければ一瞬にして死の淵にさらされる。決してこれは「珍しい事物」を撮るということではない。断片的であると感じられる写真の数々が集積され、一つの「写真群」として群れを成した時にはじめて意味を見出すことができるという理由のみなのである。

皆の生って何

 さて、本題。この頃の私は写真について何を考えているのかわからない。さっぱりわからない。暗さから前がどちらなのか判断できない洞窟に彷徨っているような感覚に陥っている。もう少しだけ広い視点で私全体を見てみると、そもそも「何故生きているのか」これすら理解できない。日常の中で私という価値を見出すことができない。何か残すために生きていく必要性が理解できない。地位を築き、その中で生きていくことが人間としての生なのか。毎日そのような上だけを見て、自我を棄ててせかせかとしている生活を「日常」と言う。これを非日常にしていきたい。それだけのために生きているとすら思える。これが「何故生きているのか」の解なのかもしれない。だからこそ、日常の中で起こる事象について思考を研ぎ澄まし、出版社別・五十音順に並べられた小説の本棚の様に整理していかなければならない。本を読みましょう。

不健康万歳を唱えていきたい

 私は「不健康」という状況に身を任せようと新年から試みた。試みた理由は前々から終わりの見えなかった卒業論文が主な要因ではある。具体的に言えば、煙草を吸い、酒を飲み、好きな食事を摂るといった欲望に負けた自分を演じることだ。また、日常生活においても写真について一体この頃の私は何を考えているのかわからず、ただただ参考になりそうな本を読んでは気持ちの下がる一方であった。どうすれば私は写真という一つの表現技法ともいえるアウトプットの場において純度の高い私を放出することができるのだろうか?どうすれば私はこの日々後ろめたく、生活の一切が否定的な感情から始まる人間であるにも関わらず、前進することができるのだろうか?
 結論から言えば「不健康」に身を投げた私は良くも悪くも「不健康」であることが、私自身の最もらしい生活、思考を導いてくれることを実感した。煙草を吸いながら読む論文や本は、どうも吸わない時よりも研ぎ澄まされていくナイフがどんどんと目の前に立ちふさがる難義な文章・思考を斬っては解釈してくれた。それはかつての自分の「もう煙草とは、おさらばだ」といった志は無駄であったことを教えてくれた。つまり不健康そのものが死ぬことを示すわけではないが、「死」をある程度実感するきっかけであることは確かだ。命を削る感覚を抱く。私自身を見出すにはこの方法が最もやさしいのかもしれない。
 また、不健康な精神に身を寄せてくれる極悪な「やさしさ」も存在する。名を出してしまえばキリがないが、ここ数日で読んだ三島由紀夫仮面の告白」は正にそのものであった。正直に言って、もっと早くこの本と出会うべきであった。それは三島由紀夫という人間に興味を持ち、その人生を知るためだけではない。仮面の告白には三島由紀夫の素性、いわゆる心苦しく現実と対面し、踠きながらも生きていく様子が見られる。三島由紀夫と私自身が相似であるとは言えないが、共通項を見つけることが仮面の告白をはじめとする作品の中に散見されるのだ。
 書籍を選ぶ時、直観的に選ぶことが多いものの背景には「偶然」で埋め尽くされているように思える。この頃の精神状況でなければ、仮面の告白のような作品は三島由紀夫という人物のおよそ二三年間の人生をなぞるだけに過ぎず、私自身とこの書籍に共感することのできないままにその内容にただ驚愕するだけだっただろう。また、仮面の告白を「何故このタイミングで読破したのか」というのも私自身を見つめると非常に面白い。これだけ三島由紀夫作品における代表作だと世間一般的には言われているにも関わらず、最初に読んだ作品は「女神」だ。勿論、女神が無ければ三島文学には興味を抱かなかったわけだから、これも偶然であると考える。何とも私は偶然に引率されているのだとこの世のあらゆるものに対して感じている。


可変していく解(一月一八日付)


 生きていることも偶然、死ぬのも突然。親より先に死ぬなという師の言葉だけを持って、私は喫茶で煙草でも吸いながらぼんやりと目の前に羅列された文章でも斬り付けていきましょう。以上。