難しいこの頃

 

久しぶりに一人休日。土曜日は友人とサウナに行き、身体をほぐす。この頃週一度のサウナが最も身体への効力があるのではないかと思うようになった。何でもそうだが事物とは適切な距離感を取っていきたい。サウナは週一度。このくらいの関係でこれからもお付き合いしていこう。

今日はというと予定が前日深夜にリスケになったので、急遽都内で開催されている展示がないか探していた。すると京橋にあるアーティゾン美術館にて何とも興味深い企画展を発見した。それと日々が過ぎてからの舞台鑑賞について。

 作品を観て一つの解を得る

実は自分自身が都内で認識している美術館というのはまだあまり多くなく、(都度興味深い企画展を見つけてはそれに従って美術館に赴く程度であった為)アーティゾン美術館があるという事も今朝方知ったくらいだ。

興味深いのは、”Cosmo Eggs”という企画展である。因みに会期は今日までという事で急いで向かった。会場を歩くにつれ異なる分野のアーティストが織りなす一連の作品群に驚かされる。

表現の構築性を考えているこの頃にこの企画展は自分にとって刺激的であった。ぼんやりと考えていた「これから」について、一つ方向性を示してくれたかのような気がした。同じ様に技法を取るというのは容易いしオリジナリティに欠けるけれど、自分が考えていた事を先にされているとなると技法や表現の無限性は面白い。早期リタイアしなければ。

第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」(2019年開催、国際交流基金主催)の帰国展を開催します。ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展は、イタリア、ヴェネチアの各所を会場とし、2年に一度開催される現代美術の国際展です。1895年から120年以上の歴史を重ね、今なお大きな影響力を持っています。ヴェネチア・ビエンナーレの日本館は、石橋財団の創設者である石橋正二郎が建設寄贈、1956年に開館しました。そのような歴史的つながりから、このたび当館で帰国展を開催することとなりました。「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」は、キュレーターの服部浩之を中心に、美術家、作曲家、人類学者、建築家という4つの異なる専門分野のアーティストが協働し、人間同士や人間と非人間の「共存」「共生」をテーマに構成されました。本展は、ヴェネチアでの展示をもとに、アーティゾン美術館の展示室にあわせて再構成するものです。映像・音楽・言葉・空間の4つの要素が共存するインスタレーションに、ドキュメントやアーカイブなどの新たな要素を加えご紹介します。

www.artizon.museum

少し前になるけれど

そういえば9月22日に「三島由紀夫没後50周年企画-MISHIMA2020」を鑑賞した。本来であればすぐにでも感想を記録していこうと考えていたのだが途中胃腸炎に苛まれたり、その影響で仕事が大幅に詰まる事となり余裕がなかった事から、中々ブログに書く事ができずにいた。

 

死なない「憂国」と題された部作に、一体何を思い、どの様にして観に行けば良いのか。チケットを早々に購入したにも関わらず、日付が近付くに連れて自分の中での鑑賞をしても良いのかわからなくなっていたのであった。

そもそも原作の憂国を現代とフュージョンさせる事による化学反応を我々が求めても良いのか、只々疑問であった。最も三島由紀夫の作品の中でも表面的には代表作と呼べる「憂国」に、私をはじめとするファンはどの様な期待と思いを持っていたのだろうか。

正直に述べるとやはり現代の色を加えた死なない憂国には、原作を知っているが故の受け入れ難さを感じたというのが当初の心情であった。あまりにも自分自身に潜んでいるコンサバティブな精神という物を実感させられた。

まず、これは私自身の主観でしかないのでスルーをしていただきたい部分でもあるのだが、私は表現において「はっきりとした」物を受け入れる事が厳しいという物がある。現代色を強める、原作と今作を明確に区別を付けるかの様にしてわかりやすいキーワードが羅列された内容というのは何とも感想どころかまず耳が聴こうとしない。何とも自分の根底にあるそういった視野の狭さ、鑑賞における偏屈さを自覚する。ある意味、今回を持ってそういった自身の感覚との対峙、認識を持つ事ができたといえばそれは私自身を一つ前に進めてくれたと思えるが、今作に対しては何も正面から対話できていないので今はこういった感想が第一に来てしまった事は猛省している。

話を戻すと、現代色の強い憂国にはどうしても鑑賞当時は受け入れ難く、汎ゆる自身の狭い思考が邪魔をして概要程度の認識で終わってしまったわけであったが、観劇をしてから数週間が経った今、現実に直面している自分にはあの作品が少しだけ引っかかっている。

それは大衆への共通項の多い作品である事から、鑑賞後の私自身の生活にも何かと共通項が少しずつ日々が過ぎるにつれて現れてきたという事である。

例えば、劇中のメインでもあった「ライブハウス」である。今は感染対策をしながらも少しずつ公演をしはじめているが、やはりまだ訪れる空間としては怖さを覚える場所だ。それに全てのアーティストがかつての公演の様な満足した状態で実施はできないし、選択肢として配信もある。これまでの公演は一体何処に行ってしまったのだろうか。そしてこれまでと同じ様にしてアーティストの熱量に負けないくらいのオーディエンスの熱量を持ってライブハウスは盛り上がる事はできないのだろうか。

そんな事を考えたり、YouTubeで配信されているライブを観ていたりすると、本当に辛くなってくる。元来、私自身は興味を示したアーティストの公演は一度は絶対に行きたいと思う性分であるし、私の周りには知人がライブを生業としている事も多い。そうした自身の周りを一度振り返ってみるとこれまでライブハウスと私は何かと密接な関係を持っていたという事を再認識する。今作の舞台上で起こった熱量はライブハウスの再現だ。煩いと思って鑑賞していたが、今になって「ライブハウスってそういう熱量がある場所だったはず」と思わされる。

結局、何を申し上げたいかというと視点の狭さ故に起こる、作品や人物に対するアンチテーゼというものは全く感想でもないし、私自身にも周囲にも何も作用しないという事だ。鑑賞当時の「原作を期待していた自分」というのはある種この企画タイトルに対して愚直であったし間違いではないと思っている。だが、今回の舞台を問わず、音楽でも絵画でも写真でも作品を鑑賞するのであればそういった自分自身のコンサバ思考は排除すべきなのだ。簡単に言えば知見をもっと広げていく必要があるし、いつまでも豊かにならない。

憂国の形は原作があの頃の憂う国の形であっただけであって、再現性を求めてはならないのかもしれない。それを求めるとするのなら、もっと世界は狭くて小さいはずだ。憂国の形は時と共に変容していかなければ意味がない。そして自分自身の思想も。

www.umegei.com