私的サ活の美学

はじめに

週末サウナ。私は週に一度のサウナがとても楽しみである。

緊急事態宣言が解除され、自粛の緩和。まだ予断を許さない状況ではあるが、各サウナ施設は様々な取り組みを行って営業している。

池袋にあるサウナ・スパ「かるまる」では以下の様な表明をしている。あくまでも「施設としての対策はしているが、対策は万全ではない」という事は留意したい。

かるまる サウナ室の換気機能は伊達じゃない!
今伝えたい「サウナ室の好都合な真実」

 

サウナの何が良いのか

地域性のある銭湯に備え付けられた乾いたサウナも好きだし、リラクゼーションスパの本格的なサウナも好きである。

サウナはただ熱いだけでなく、どの様な方法で室内を蒸しているかというのも重要な要素の一つで、身体の温まり方も異なってくる。

また、これに相まってサウナは水風呂に入らなければ意味が無い。所謂、「温冷交代浴」である。

サウナで血管を限界まで拡張させ、水風呂で一気に収縮させる。水風呂の温度でサウナ施設のクオリティが決まってくるといっても過言ではない。

水風呂でぎゅっと心臓が圧迫されたサウナーは朦朧とした意識の中で椅子に座り込む。

少しばかり目を瞑って休憩を取るのだ。この時、水風呂で収縮された血管が元に戻ろうとする感覚から身体はじんわりとした心地良さを持ち、脳は直撃する快楽感を得る。これをサウナでは「整った」とか「サウナ・トランス」と呼ぶ。

お願いです

ここまで読んでいただければ理解いただけた事と思うが、サウナはこの一貫した流れの行為を総称する。

私がサウナに嵌って2年弱。

最初は私よりも年齢層の高かったサウナも、現在に至るまでの間に若年層も非常に増えてきたと感じる。今日行ったサウナも若年層が9割といったところだ。

我が国のストレス社会のせいなのかもしれない。何故ならリラクゼーションスペースは現実逃避にうってつけなのだから。サウナ施設は現代を如実に投影した社会の縮図である。

ここで私が唱えたいのは、それぞれの「サウナ」に行く目的とは何かである。誰かはこのくそったれ社会に辟易し現実逃避の場として。誰かは友人や仕事仲間との裸の付き合いをするための場として。他にも人によって様々だと思うけれども、大きく分けてこの2つではないだろうか。

で、ここからグダグダと長い事普段なら書いていくのだが、今回は端折ってこれだけ伝えたい。

 

サウナは黙って入ってくれ。お願いだから。

サウナブームによって本来のサウナを踏み躙っている様にしか思えないから、これだけは言いたい。

冒頭述べた様にサウナは温冷交代浴、そして小休憩。この一連の流れから自身に脳内トランス状態を呼び起こす。

この時、目を瞑っているとありと汎ゆる「音」が鮮明に聴こえてくる。循環機の音、流れる水の音、音楽。そしてこの時間には誰も入ってこない、無意識の内に自閉された空間に私たちは閉じ込められる。他人の声さえ聞こえなければ、至福の時間であり、サウナの集大成なのである。

わかりやすく言えば結果が台無しなのだ。スポンジから作ったケーキのデコレーションが上手くいかず、見栄えが悪い。とかそんな感じだ。(例えがこの程度なのは申し訳ないが)

百歩譲って小声で会話する程度なら構わない。だがしかし、大きな声で話されていると一瞬で邪念が混ざり込み、身体だけが精神を置いてきぼりにして「整い」へ到達する。身体は発汗しているのだが、納得いかないのだ。今日のサウナは何だかな。と思いながら浴場を後にする。

まあ・・・楽しみ方は人それぞれだとも思う。ただ、「サウナで整う」といった目的を持って訪れている人の中で大声で話している人がいるのであれば、一度は「サ道」で志しやマナーを掴むべきで、他人の「サウナ活動」を邪魔しない様に留意するべきだ。

皆それぞれが「整い」を求めてサ活をしているという事を理解したいところだ。

 

愚痴という不完全燃焼物を記すのは好ましくないのだが(ブログは一方的過ぎる故に議論ができないため)、上記サウナの嗜み方について異論は認めます。個人的な偏見もあると思いますし。

あと、皆様の「私流サウナのすゝめ」を教えてほしいです。

共感いただいた方とはおすすめのサウナも共有したい。これもサウナの醍醐味。井戸端会議的ネットワークの深さ。良さ。年中募集中です。

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