三島由紀夫の本質を理解しようとする私にー「没後五〇年という歳月」

二〇二〇年。早速一月が終わろうとしている。年末年始に疲弊した精神、身体を伸び伸びとさせた私は、それまでの生活を取り戻す事に懸命になり、またしても「世間、どうでもいい」というセンチメンタルな感情に殺されている。自閉的な時間を休日に与えると、どうしてもそこから輝かしい時間を得ようとする気は無くなっていく。それはさておき、こんな映画が上映される事を知る。

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今年は日頃から愛読している三島由紀夫の没五〇年となる。何やら世間も、それを機としているらしく、三月には「三島由紀夫VS東大全共闘」なんてドキュメンタリ映画が公開される。ナレーションは近頃世間を騒がせている東出昌大だ。そんな世間のことはどうでも良いので映画だけは確実に上映していただきたいものである。

 

前置きはさておき、本題を。前置きにも記した、三島由紀夫について昨日の話を。

一九七〇年十一月二五日。三島は市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を行った。その事実は、三島愛読者でなくとも、ある程度三島由紀夫という人物を知ろうとする人間であれば、既知の事実であろう。

私の中で、三島由紀夫は大きく二面の人物像がある。文としての三島と、武としての三島。双方を切り分けて知る事ができなければ、四十五年という彼の人生を、理解するには難しい。特に後者は、容易に受け入れるものでもないと思っている。(私自身に特別な政治的思想が無いという事も、ここに記しておきたい。)

冒頭に記した様に、私は日頃から三島を愛読している。仮面の告白を読み、彼の青年期の行く宛のない思想や性癖を知り、只々衝撃を受けた事は今でも覚えている。その後、女神や金閣寺、ラディゲの死を読んでは、三島由紀夫という人物を純粋な気持ちで知りたいと感じる様になった。しかし、私には足りないものがあった。それは文面に存在する三島を読もうとしているだけに過ぎなかったということである。

三島由紀夫という人間が実在していたという事実。三島由紀夫とは一体何者なのか。作家としての彼を知ることだけではなく、全てを知りたいという欲求が、いつしか私の内なる部分に潜みはじめていったのである。

一昨年、豊饒の海を完読した瞬間、それは訪れた。現実、物語に現れる様な情景や台詞といったものを、実際に目にしたいと思う様になった。

昨年の「思う様に行かなかった一年」は、致し方のないものであって、一昨年の様に足を運ぶ事はできなかったものの、三島由紀夫の影響から「他人の死」に対する受容体としての新しい理解を得たと考えている。「死」は悲観的事実であると共に、それは他人にとっては単なる一つの出来事でしか無いのである。死に対して、悲観的になるもならないも、受容体である人間の過去にしか左右されないのだ。これを持って私は、ますます、私が「死」を望んでいると知った。「死」というあの世とこの世を結ぶただ一つの出来事が来るその日に、私は興味を抱いている。覚悟しない「死」だけを除いて。

恐らく、私自身の自覚している性格「俯瞰的世間視」は此処にある。私の半生が一瞬にしてある一人の作家に塗り替えられた様に、三島にもその一瞬が存在していたのではないのだろうか。

そう思った私は、日頃の東京という喧騒の交えた綺羅びやかな街から離れるべく、山梨県にある山中湖畔に訪れた。森林のざわめき、野鳥の囀りを聴くべくして。

私は文学の森公園に訪れ、乾いた空気と枯れた枝々に囲まれた三島文学館に向かった。そこには三島由紀夫がまだ三島由紀夫という人物を描かなかった頃ー「平岡公威」少年が詩人として歩もうとする半生と、「三島由紀夫」という青年の晩年までを原稿や写真から感じられる。少年の乱暴で夢を描いた様な可愛らしさすら感じる絵と、晩年に向かうに連れて完成されていく文章の数々。そこには才能と三島自身の過去に対するコンプレックスへの打破しようとする力強さすら感じる事ができる。

この地に何故三島由紀夫文学館が建設されたのかは、晩年の政治的思想や事実から、何処にも建たなかったという一説もあるが、訪問者としてはこの地特有の冷たく、他人の声も聴こえない「自然な」世界に建設されて良かったのではないだろうか。

文学館の庭園には、三島由紀夫邸にあるアポロン像をイメージした像が設置されており、それと真正面にして座ることができる。冬景色に包まれ、この像を眺める一時に、これ程の淋しさを感じたことはこれまでになかったであろう。正に至福と、追い求めているかのような時間であった事をここに記しておく。

※尚、三島由紀夫文学館でしか購入することのできない、三島由紀夫詩集、文学館オリジナル編集の三島由紀夫という人間を記した本がある。事実文学館に訪れる事は頻繁にはできないだろうから、是非とも訪れた際は手にして欲しい。

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