靴紐が緩む時

晴れ模様の作り方

久しぶりの快晴日だということに、月並みだが心も晴れやかになっている。梅雨が入ってからだろうか、ずっと心の下がり具合と気圧の影響か体調も優れなかった。風邪を引くよりも重たい時間が延々と流れていた。同時に5月末に開けた緊急事態宣言の影響か、仕事が動き始めており、自我を忘れるくらいに平日は多忙であった。入社二年目という事も大きい。頭では解っていたとしても身体が仕事を覚えるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

それでも平日の夜に余裕のありそうな日は(無い日も無理をしたこともあったが)、なるべくプライベートの時間を設けようとした。社外の人と食事をすることは恐らく自分も相手にも有意義であった事だろう。そう思いたい。

精神維持の為の棲み分け

土日が休みの自分にとって週休2日の使い方を大切にしている。2日とも誰かと会っていては疲れてしまうし、2日とも仕事以外の人間と会わないというのも、何だかとても退屈で心が廃れてしまう。

今週は、そういう「自分なりの休日」としては満足している。土曜日は大学の頃に出会った先輩とサウナに行ったし、身体もいつもよりもずっと軽い。今日だって日曜日にひとりで近くの商業施設でカフェをはしごしては本を読んだり、こうやってブログを書いている。それにひとりで外に出る事で得られる視覚や聴覚がある。それを自分自身で還元できているかは別だけど、時間の流れがいつもよりも緩やかで有意義なものであることに変わりはない。

自分の内側と対話する事が多忙極まりない平日にはできない事なのだから、休みの半分くらいはこんな時間があったって良いだろう。

僅かな楽しみ

現在進行系ではあるものの、先日大阪にある国立美術館で購入した大量の本達を読む事がここ最近の楽しみの一つである。後で買えばよかったのかもしれないが、本は「その場の出会いから」なんて自分で決めつけた信念があるので帰りの荷物にはなってしまったが好きなだけ買い込んだ。本は衝動性に任せて買うくらいが丁度良い。買う意味なんて読み終わった自分にしかわからないのだから。

最近は趣味嗜好への体系的な学習を心がけている。何事も感覚で解った気になっている自分が昔から好きではない。簡単に言えばサウナがどの様に身体に作用するのかだとか、雑談をする上でのコミュニケーションの取り方、反応、といったところ。こういうのって他人にひけらかすものではなくて、あくまでも「自己満足」の世界だ。決してサウナに入っている友人や周囲の人へうんちく語りをしない様にしなければならない。同じベクトルで趣味を楽しめる人、そうでない人と理解をする事はこういった趣味への学習を行う上で留意しなければならない。

もしも当ブログがなかったら

ブログの有用性について考えていきたい。私のこのブログは誰かに見て欲しくてやっているわけでは無い。この辺りは過去記事でも同様のことを書いている。当ブログは匿名である為に事実の具体性に欠ける。なるべく自分の内側に正直さを持ちたいという思いの上で書いている。

untruth-rx.hatenablog.jp

 

どこかに自分が正直にいられる場所が無いと辛い。その集積がこのブログへと变化するわけなので時々過去記事で何を書いていたのか振り返るとその殆どが重く苦しい事ばかりだが、寧ろ他の場所(実生活や実名での行為)と上手く付き合いができているのだからブログは自分にとって意味を成して機能しているといえる。大学四年の少し実生活から離れたくなったあの頃にはてなブログで文字を書く事にして良かった。

 

その他諸々の何か

・あまりに忙しすぎて他人と食事をしない限り何を食べているのかもわからない。先日セネガル料理を吉祥寺に食べに行ったが誰と食事をするかというのは本当に大切な事だと実感した。なるべくひとりでいることは避けたい。忙しいと感じた時は特に。

・感覚的にiPad Proが欲しい。Macbook Proとのいまいち棲み分けがわからないが、サブディスプレイとして、外出用の閲覧ツールとしてだろうか。独立したiPad Proの利用方法をご教示願いたい。

・YOASOBI「夜に駆ける」に嵌っている。理由は解らない。たまに普段とは異なるジャンルに嵌る時がある。自分の価値観と心の変化を感じる。全く触れなかったものに初めて触れた時に良いと思えた気持ちを大切にしたい。

youtu.be

・悲しくて仕方のない時程、揺れ動く自分の心をきつく縛らないといけないもの。

 

柔らかくなりたい

日常、私はひとりでいるほとんどの時間を自分自身と対話している。診断されたわけではないが、周囲の環境や音に敏感で、それに対していつも自分自身の対話の中で文字に起こしている。

例えば、今乗っている京都駅から新大阪へと向かう電車。窓側の席に座り、久しぶりに晴れた空と分厚い入道雲を見ている。

電車が走る音、アナウンスの声、車窓から見える人々。私の脳内は常に何かを考え続け、何かを自身にぶつけている。

当然、この様な行為は疲れる。ほとんどの時間がこれだから非常に疲れる。ただ純粋に「今日は晴れているから空が綺麗」くらいに思えれば丁度良いのかもしれないが、何故か詩的に、ノスタルジーな感情が交じって文字に起こしてしまう。

頭が硬いのだと思っている。何も考えないよりはましなのかもしれないが、数年前のアルバイトにおいて「仕事の一つ一つに意味を見出して働いてくれ」と言われた事が大きな要因の一つであると思っている。別に悪い意味だけではないし私自身に良い影響を与えてくれたとも思っている。ただ、どこか仕事とプライベートの分別が付かなくなってしまう様な環境だった事もあって、プライベートにおいても何かしらの自分が納得する「意味」を見出さなくてはならないと思う様になったし、それ自体が本当に正しい行為なのかも分からなくなってしまった。

肩の力を抜く事のできる環境を作らなくてはならない。前述する様に「ひとりの時間」を極力無くして、誰かといる時間が必要だ。きっとこのままひとりで生きていくとなると、私はウサギが寂しさを感じて死ぬ事と同様に、自閉された自身の空間の中で誰にも言わずに生き絶えるだろう。現に「何かを考え続ける生活」にとんでもなく疲れていてしんどいし、早く離脱したい。それがパートナー、友人、上司、同期、何だって良いと思う。(なるべく上司や同期は仕事を想起させるので控えたいところだが)

どうか自分が柔らかい存在でいられたら。過去のせいにしないで、今を前に進めたら。

完全にサウナに支配されている

 サウナバカになりつつある

疲れたらサウナ。仕事で気が荒んでいる時はサウナ。考え事がある時はサウナ。大体休日か夕方くらいになるとサウナを考え始める。仕事で出先なら「今日の仕事頑張って早く終わらせてサウナに行こう」とか、「一回サウナ入って考え直そう」とか。営業職を良い感じに回していきたい。サウナーだから。サウナで日常を回していく所存である。

サウナ歴が2年くらいになるのではないかとぼんやり気が付きはじめる。初めて入った記憶は明確なものではないが(それほど当初はサウナに対して魅力的なものであると感じていなかったのだ)、友人に連れられ気が付けば単独でサウナ施設に向かう事もあるし、いつもの友人達で「今日はこのサウナに行くぞ」と心を決めて行く事もある。何ならサウナについて書かれた本を読む様になり、体系的にサウナについて学びたい身体になってしまった。

 

オフラインなサウナ

サウナはひとりで行けば良質な自閉的空間を、友人と行けば共通の話題をもたらしてくれる最高の場所である。私はこの「井戸端会議的」なオフラインなサウナが好きなのである。

周知の通り日常は情報で溢れているし、他人の行動や出来事、発言といったものに自身の精神的な部分を蝕まれ、行動を支配されている事と思う。サウナはそういった環境を拭ってくれる。何にも邪魔される事なく、熱波を浴びて良質な水風呂で身体を清め、更には外気に浴びる事で収縮された身体を一気に開放する。じんわりと身体が開き、脳内はトランス状態に陥る。この時、空を見上げながら遠くを眺めていると、一点を観ているはずなのに空が回り始めるのだ。何を言っているんだお前は。と思う人の方が多いだろうが、サウナーはそういうものを求めているはずだ。これを「整い」と呼ぶ。

話が少し逸れたが、先日関西方面のサウナ旅を友人達とした。神戸にある「神戸サウナ&スパ」と梅田にある「大東洋」だ。

www.kobe-sauna.co.jp

www.daitoyo.co.jp

中でも梅田・大東洋で興味深い話をしていた人達がいたので声をかけてみた。(休憩中に申し訳ないと思いながらも西のサウナ事情を知りたいと思い)

結論、西のサウナ事情よりも「東京のサウナは良いですよね。池袋にあるかるまるの薪サウナは行きました?羨ましいです。」といった東京サウナ事情についてヒアリングされ、彼らの出張を楽しみにさせてしまった。結果良かったのだろう。私はあまり西のサウナ事情を聞くことはできなかったが。

ただ、この日にいたサウナ施設はどうやら良質だと評判が良いらしい。(西に行くというのに何も調べず友人が大東洋に行こうと言ってくれたからここに来れている事に何度も感謝したい。)

土日限定でセルフロウリュができる。ロウリュをすることでサウナ室いっぱいに心地良い熱波と微かなアロマの香りで充満していく。何よりも熱すぎてすぐに出たくなる気持ちよりも「もっといたい」と思わせてくれる。

話さなくとも「大東洋最高じゃないですか」と。この気持ちだけで西の常連の皆様に少しだけ打ち解ける事ができた。サウナがなかったら、こんな風に誰かに話しかけられただろうか?

オフラインな共通な趣味があるからこそ、血の通った会話ができると思っている。

普段「〜が好きそうだから、この人にはこの話をしてみよう」とよく考えるし、事実幾つかの話の銃弾を身体の内側に込めて人に会う性分だ。そんな自分にはサウナに居る人達とは普段話さないけど話したくなるし、お互いの「サウナ良いですよね」という心だけで十分関係は築けるのではないかと思う。

サウナは自分の身も心も、そしてオフラインなコミュニティを作り上げる、最高の居場所なのだ。

 

私的サ活の美学

はじめに

週末サウナ。私は週に一度のサウナがとても楽しみである。

緊急事態宣言が解除され、自粛の緩和。まだ予断を許さない状況ではあるが、各サウナ施設は様々な取り組みを行って営業している。

池袋にあるサウナ・スパ「かるまる」では以下の様な表明をしている。あくまでも「施設としての対策はしているが、対策は万全ではない」という事は留意したい。

かるまる サウナ室の換気機能は伊達じゃない!
今伝えたい「サウナ室の好都合な真実」

 

サウナの何が良いのか

地域性のある銭湯に備え付けられた乾いたサウナも好きだし、リラクゼーションスパの本格的なサウナも好きである。

サウナはただ熱いだけでなく、どの様な方法で室内を蒸しているかというのも重要な要素の一つで、身体の温まり方も異なってくる。

また、これに相まってサウナは水風呂に入らなければ意味が無い。所謂、「温冷交代浴」である。

サウナで血管を限界まで拡張させ、水風呂で一気に収縮させる。水風呂の温度でサウナ施設のクオリティが決まってくるといっても過言ではない。

水風呂でぎゅっと心臓が圧迫されたサウナーは朦朧とした意識の中で椅子に座り込む。

少しばかり目を瞑って休憩を取るのだ。この時、水風呂で収縮された血管が元に戻ろうとする感覚から身体はじんわりとした心地良さを持ち、脳は直撃する快楽感を得る。これをサウナでは「整った」とか「サウナ・トランス」と呼ぶ。

お願いです

ここまで読んでいただければ理解いただけた事と思うが、サウナはこの一貫した流れの行為を総称する。

私がサウナに嵌って2年弱。

最初は私よりも年齢層の高かったサウナも、現在に至るまでの間に若年層も非常に増えてきたと感じる。今日行ったサウナも若年層が9割といったところだ。

我が国のストレス社会のせいなのかもしれない。何故ならリラクゼーションスペースは現実逃避にうってつけなのだから。サウナ施設は現代を如実に投影した社会の縮図である。

ここで私が唱えたいのは、それぞれの「サウナ」に行く目的とは何かである。誰かはこのくそったれ社会に辟易し現実逃避の場として。誰かは友人や仕事仲間との裸の付き合いをするための場として。他にも人によって様々だと思うけれども、大きく分けてこの2つではないだろうか。

で、ここからグダグダと長い事普段なら書いていくのだが、今回は端折ってこれだけ伝えたい。

 

サウナは黙って入ってくれ。お願いだから。

サウナブームによって本来のサウナを踏み躙っている様にしか思えないから、これだけは言いたい。

冒頭述べた様にサウナは温冷交代浴、そして小休憩。この一連の流れから自身に脳内トランス状態を呼び起こす。

この時、目を瞑っているとありと汎ゆる「音」が鮮明に聴こえてくる。循環機の音、流れる水の音、音楽。そしてこの時間には誰も入ってこない、無意識の内に自閉された空間に私たちは閉じ込められる。他人の声さえ聞こえなければ、至福の時間であり、サウナの集大成なのである。

わかりやすく言えば結果が台無しなのだ。スポンジから作ったケーキのデコレーションが上手くいかず、見栄えが悪い。とかそんな感じだ。(例えがこの程度なのは申し訳ないが)

百歩譲って小声で会話する程度なら構わない。だがしかし、大きな声で話されていると一瞬で邪念が混ざり込み、身体だけが精神を置いてきぼりにして「整い」へ到達する。身体は発汗しているのだが、納得いかないのだ。今日のサウナは何だかな。と思いながら浴場を後にする。

まあ・・・楽しみ方は人それぞれだとも思う。ただ、「サウナで整う」といった目的を持って訪れている人の中で大声で話している人がいるのであれば、一度は「サ道」で志しやマナーを掴むべきで、他人の「サウナ活動」を邪魔しない様に留意するべきだ。

皆それぞれが「整い」を求めてサ活をしているという事を理解したいところだ。

 

愚痴という不完全燃焼物を記すのは好ましくないのだが(ブログは一方的過ぎる故に議論ができないため)、上記サウナの嗜み方について異論は認めます。個人的な偏見もあると思いますし。

あと、皆様の「私流サウナのすゝめ」を教えてほしいです。

共感いただいた方とはおすすめのサウナも共有したい。これもサウナの醍醐味。井戸端会議的ネットワークの深さ。良さ。年中募集中です。

sauna-ikitai.com

無にはなれない

しんどい、ただしんどい 

ここ最近の私は何もする気が起きない。何もしたくない。辛うじて本を読む気はあるのだが、身体が思う様に動かない。巷では「遅めの五月病」とか聞こえてくるけどそういう事なのだろうか。どうも「そろそろ頑張らないとな」という理由のない気持ちが私を邪魔している。こんな生活だから「何か」を頑張らないといけなくて、「何か」をしなくてはいけない。そんな漠然とした気持ちとほぼ自宅に引きこもる生活から閉塞感を覚えてしまっている。5月に週3日程度ランニングをしていたが、6月に入ってからそれも一切なくなってしまった。恐らく視界に入る情報に見慣れてしまったからなのだろうと自覚している。というのも私は普段から外に出て見慣れないものを見つけたりする事が好きだし、本来あまり家にいることが好きではない。同じ景色しか毎日無いのも中々に辛いものだと痛感する。

あとは梅雨の季節で雨が多く、気候が不安定な事も自身のメンタルに関与しているものと思われます。多分。

救いのサウナ

そんな中、外出自粛が緩和され土日に少しずつ外出したりする。まず公に緩和された今行きたかったところはサウナであった。これまで我慢してきた事もあって己の身体にはかなり刺激的だった様だ。東京 鶯谷駅にあるディープな街並みに溶け込む「サウナセンター」はそんな久々の身体に快楽を教えてくれたのである。数週間経った今でもあの21時のアウフグースを忘れる事はできない。熱波と悲鳴。やはりサウナは潜在的マゾヒズムを呼び起こすのかもしれないと熱波を浴びてぼんやりと考えたりする。

「何もしない」を頑張るために

ー「何か」しなくてはいけない。といった邪念を取り払うために2年振りくらいに祐天寺と高円寺にシーシャを吸いに行った。久しぶりのシーシャは良かった。2時間だけでも「ここにいて良い」という理由と周りを気にせずに時間を過ごすことができるから。自己満足でしかないし、ただ自身の行動を正当化する理由にしかならないのだがそれで良いのです。「何もしない」を頑張ったというだけです。

それでも大変です

在宅勤務をすることによる恩恵を受けたのは通勤時間がゼロになった事による睡眠時間の確保であったり、私服でによるストレスフリーな労働か。これだけ書くと非常にメリットばかりである様にも思えるが、新卒入社2年目の人間としては業務に不明な点も多く、すぐに確認ができる環境でない事は少々苦痛であったりする。無論、不要な会話が減る事で随分と気は楽になったものだが。

 

最近嬉しかったこと

12012が復活する。

 中学生の頃、そして大学でバンドサークルで少しだけバンドをやっていた頃に先輩の

 影響で何度も聴かされて弾かされた。

・久々に人を遊びに誘った。

 自粛の影響もあるが本当に久しぶり。自分から誘った。だから楽しみ。それだけ。

LUNA SEAがかっこいい。

 自粛期間中にYouTubeを散々観たがLUNA SEAの良さに違う角度から気がついてしま

 った。一刻も早くライブがどうにかかつての様にできることを祈っている。

 

6月に読んだ本とか映画とか(順不同)

・花ざかりの森 憂国三島由紀夫

・ラディゲの死(三島由紀夫

・告白 三島由紀夫未公開インタビュー(三島由紀夫

・太陽と鉄(三島由紀夫

・東京百景(又吉直樹

・東京喰種(実写)

 

本棚に三島が置いてある男性諸君の家はドン引きされるそうだ。(Twitterより)

思うのは自由だけど、なんだかな。以上。

二面の「私」

noteは実名を持って書いている。以前(というより並列しているが)はてなブログに思考整理と称して汎ゆる事物や本や芸術に関して自身の捻くれを利かせて文字書きをしてきた。

匿名ブログであるはてなブログで書いていた最大の理由。それはテーマという思考を緊縛する世界線で文字を書く事は「誰かに理解される事が全ではなく、そこに充足感を得たいと思っていない私」にとって最悪の精神の居場所であったからであり、はてなブログという「疑似自由空間」に身を置くことで私の、私自身でもよく解っていない「思考」をなるべく文字を書く事で明瞭な物へと变化させたかったのである。

しかしnoteにおいて私は実名で書くという制限空間の中で文字を書いている。これが非常に苦しい。胸に何かを詰められたかの様に苦しい。何が苦しいかというと、実名を持つ事によって文字に対する責任を伴い、書いた瞬間に独りで歩いていく文字を後ろからじっと見つめて生活していく事が苦しい。時にそれは飼い馴らした愛猫に対する愛着精神を抱く事もあれば、別れた異性に対するある種の嫌悪の様な感情を抱く事もある。殆どは後者である事が多い。

ブログに限らず実名を使って運用しているSNSもそうだし、実世界での私が存在している空間においても同様の感情を抱く場面は多々存在する。上記だけでは「実名を持ってSNSを運用しなければ良い」が最適解の様に思えるが、実世界でも同様なのだからどうしようもないなという気持ちだ。

話を冒頭の「捻くれを利かせた文字書き」に戻したい。捻くれを利かせているのは意思ではなく根っからの性分によるものであった。私は社会、他人、事象といった、ありと汎ゆる事物に対して斜に構える癖がある。それを自覚しながら匿名性に頼って(またはそれに責任というものを擦り付けながら)書いてきた。斜に構える事が、何か善し悪しを決める様な事はないと思っているが、自認する事によって私に内包する感情は「苦悩」へと変わった事は確かである。また、斜に構える事を促進させたのは紛れもなくSNSという存在による「無意識の情報収集」であろう。*1根拠のない発言や社会情勢に対する無責任な言動と心理。私自身に必要のない他人の近況と私のインスタントな思考整理。頭では理解しているつもりだが、SNSは無思考に使う人間が一番上手な付き合い方であると考えている。私はいつからかブログをはじめとするSNSにおいて文字書きをすることが辛いと感じる様になっていた。

そんな私の煩悩を打破した一助に「若林正恭」という人間が存在する。思えば小さな頃から好きな芸人、コンビはと考えると決まって「オードリー」だった。また、私の好きな番組の一つに「オードリーさん、ぜひ会って欲しい人がいるんです。」がある。中京テレビを中心に全国で放映されている本番組ではオードリーが会いたいと思う視聴者に出演してもらい、特技や出演者の苦労話を探っていく番組だ。この番組には漫才でもバラエティでもない、二人の人間性を垣間見える瞬間がある。例えば、「他人の作った料理は食べられない姿」とか「明らかに苦手な性格の人間には前向きではない話の展開をしている姿」である。他にも多々あるが、妙に若林氏には興味を惹かれていた。(市野瀬アナと意思衝突の回は何度見ても面白い。)また、先日放送されていた「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」では、「異性と二人きりで食事をする際には話の銃弾を7つ程込めて臨む」というシーンに親しみを抱いた事もあった。

ここまで若林氏に興味と勝手な親近感を抱いた私は、氏がエッセイを出版していた事を思い出した。調べてみると数冊出版しているが、中でも今回読んだ一冊は「ナナメの夕暮れ」だ。本書では若林氏の40代にさしかかるまでに連載された、エッセイの集大成である。下積時代の尖り捻くれた若き氏や、事物に対する否定的感情を生まない為の氏の努力。40代になるまでに持ち込んでしまった氏の苦悩やナナメ目線の要素がふんだんに詰まっている。

books.bunshun.jp

価値下げによる自己肯定は楽だから癖になる。ハロウィンの仮装、バーベキュー、海外旅行など、それらをSNSでコソコソと価値下げ攻撃をしていれば、反撃を食らうこともないし自分がそういうムーヴメントに流されない高尚な人間のような気分も味わえる。ぼくの場合、高校を卒業してから物事に対する価値下げは加速していった。大学でサークルに入ること。学園祭に本気で取り組むこと。海外に一人旅に出ること。告白すること。何でも〝みっともない〟と片付けて、自分は参加しなかった。そうやって他人がはしゃいでいる姿をバカにしていると、自分が我を忘れてはしゃぐことも恥ずかしくてできなくなってしまう。それが〝スタバでグランデと言えない〟原因である。誰かに〝みっともない〟と思われることが、怖くて仕方がないのである。そうなると、自分が好きなことも、他人の目が気になっておもいっきり楽しむことができなくなってしまう。それが行き着く先は「あれ?生きてて全然楽しくない」である。他人への否定的な目線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。*2

上記引用は私が本書を読み進める上で最も印象に残った一節である。価値下げによる自己肯定は現代における病に近いものではないだろうか。それなりにSNSを使っていれば他人の行動や発言に対して「ナナメ」に見ていたり、直接言わずとも対象の価値を心の内で否定し「価値を下げる」事で自己肯定感の充足から高尚な人間になった瞬間があるのではないだろうか。

何か自分自身で行動を起こして満足を得るよりも、他人の行動に対して共感や批判をする事による「インスタントな」満足感は得る事が容易い。また、思考を凝らす時においても「共感」に縋る事であたかも自分の言葉の様に手に入れる事もできる。そんな無思考による質量の無い言動に対して批判するつもりは一切ないという事はここに記しておきたい。

話は匿名性のブログから実名を持った本ブログを運用する理由へと戻る。私が実名を持ってブログを書く理由は、発言に質量を持たせたかったからだ。私は「実名を持つ事によって文字に対する責任を伴い、書いた瞬間に独りで歩いていく文字を後ろからじっと見つめて生活していく事が苦しい。」と前述したが、それは見ている他人がいると錯覚しているからであって、実際には見ている人なんて誰もいないくらいの気持ちで自身の思考と対峙し続ける事が、発言への質量を含ませる事へと繋がると考えている。匿名性に縋る事なく、私は実世界における事象や事物に対して私自身の思考が、どの様に私自身にはたらきかけるかを追い求めていきたい。それが本ブログの最適解であると考える。

私において20代前半という年齢がまだ「尖りや世間に転がる事物を斜めに見る年齢」だとしても、自認した瞬間から苦痛であり続ける。同時に日々それを打破したい/自身をアップデートしたいという願望が存在する。若林氏はそれを40代になるまで気が付かなかったと述べ、例え20代に起こる過去の出来事が「今に活きている後悔」だとしても本人とって他人には理解を得られない相当の苦悩があった事も読み取れる。若林氏の等身大の言葉と経験で書いた本エッセイはその集大成であって、今その苦汁を嘗める私には方向性を問い正してくれる良いエッセイであった。このエッセイに出会えた事に感謝したい。

*1:もう一つ「孤独」なんて存在もあるが、これは大切に心の内にしまっておきたい。

*2:若林 正恭. 「ナナメの夕暮れ」-「ナナメの殺し方」より。