不健康万歳

 

ブログの最重要性・日常を攫むこと

思考整理という点でブログを書くことは非常に大切であると言える。例えば日常の中で起こる事象の数々、それらを記憶として瞬時に捕えていく。捕えていく、これには何だか一点一点を大切に見つめているといった意味合いを覚える。写真においてもそのようなことは同様に言える。写真は日常的に起こる「事象」を狙うことも一つの使命であると考え、写真を常に撮るという意識の中で自我を存命していかなければ一瞬にして死の淵にさらされる。決してこれは「珍しい事物」を撮るということではない。断片的であると感じられる写真の数々が集積され、一つの「写真群」として群れを成した時にはじめて意味を見出すことができるという理由のみなのである。

皆の生って何

 さて、本題。この頃の私は写真について何を考えているのかわからない。さっぱりわからない。暗さから前がどちらなのか判断できない洞窟に彷徨っているような感覚に陥っている。もう少しだけ広い視点で私全体を見てみると、そもそも「何故生きているのか」これすら理解できない。日常の中で私という価値を見出すことができない。何か残すために生きていく必要性が理解できない。地位を築き、その中で生きていくことが人間としての生なのか。毎日そのような上だけを見て、自我を棄ててせかせかとしている生活を「日常」と言う。これを非日常にしていきたい。それだけのために生きているとすら思える。これが「何故生きているのか」の解なのかもしれない。だからこそ、日常の中で起こる事象について思考を研ぎ澄まし、出版社別・五十音順に並べられた小説の本棚の様に整理していかなければならない。本を読みましょう。

不健康万歳を唱えていきたい

 私は「不健康」という状況に身を任せようと新年から試みた。試みた理由は前々から終わりの見えなかった卒業論文が主な要因ではある。具体的に言えば、煙草を吸い、酒を飲み、好きな食事を摂るといった欲望に負けた自分を演じることだ。また、日常生活においても写真について一体この頃の私は何を考えているのかわからず、ただただ参考になりそうな本を読んでは気持ちの下がる一方であった。どうすれば私は写真という一つの表現技法ともいえるアウトプットの場において純度の高い私を放出することができるのだろうか?どうすれば私はこの日々後ろめたく、生活の一切が否定的な感情から始まる人間であるにも関わらず、前進することができるのだろうか?
 結論から言えば「不健康」に身を投げた私は良くも悪くも「不健康」であることが、私自身の最もらしい生活、思考を導いてくれることを実感した。煙草を吸いながら読む論文や本は、どうも吸わない時よりも研ぎ澄まされていくナイフがどんどんと目の前に立ちふさがる難義な文章・思考を斬っては解釈してくれた。それはかつての自分の「もう煙草とは、おさらばだ」といった志は無駄であったことを教えてくれた。つまり不健康そのものが死ぬことを示すわけではないが、「死」をある程度実感するきっかけであることは確かだ。命を削る感覚を抱く。私自身を見出すにはこの方法が最もやさしいのかもしれない。
 また、不健康な精神に身を寄せてくれる極悪な「やさしさ」も存在する。名を出してしまえばキリがないが、ここ数日で読んだ三島由紀夫仮面の告白」は正にそのものであった。正直に言って、もっと早くこの本と出会うべきであった。それは三島由紀夫という人間に興味を持ち、その人生を知るためだけではない。仮面の告白には三島由紀夫の素性、いわゆる心苦しく現実と対面し、踠きながらも生きていく様子が見られる。三島由紀夫と私自身が相似であるとは言えないが、共通項を見つけることが仮面の告白をはじめとする作品の中に散見されるのだ。
 書籍を選ぶ時、直観的に選ぶことが多いものの背景には「偶然」で埋め尽くされているように思える。この頃の精神状況でなければ、仮面の告白のような作品は三島由紀夫という人物のおよそ二三年間の人生をなぞるだけに過ぎず、私自身とこの書籍に共感することのできないままにその内容にただ驚愕するだけだっただろう。また、仮面の告白を「何故このタイミングで読破したのか」というのも私自身を見つめると非常に面白い。これだけ三島由紀夫作品における代表作だと世間一般的には言われているにも関わらず、最初に読んだ作品は「女神」だ。勿論、女神が無ければ三島文学には興味を抱かなかったわけだから、これも偶然であると考える。何とも私は偶然に引率されているのだとこの世のあらゆるものに対して感じている。


可変していく解(一月一八日付)


 生きていることも偶然、死ぬのも突然。親より先に死ぬなという師の言葉だけを持って、私は喫茶で煙草でも吸いながらぼんやりと目の前に羅列された文章でも斬り付けていきましょう。以上。