新年不法投棄人生

 

 

過酷で過剰な労働について

 私は年末は30日まで、年始は2日からと労働をこなしている。4年連続で「正月を捨てた人間」は私のことである。というのも、「金が欲しい」という得た先に目的も見出していない、ただ欲望を満たしたかったからだ。昨年振り返ってみれば思うように金を使うことはできなかったし、好きなものや服を手に入れる自由というものは一切なかったと言える。これが生活をしていくにおいて本当に辛いなと思わされる。そりゃ何か言い訳を作って純喫茶に行ったり、本を読む事も一つの欲を満たす行為にあたるわけだけど、そうじゃなくてもっと大きな何かを金で買いたい。あの大金を一括で支払った時の鳥肌の立つ感覚を味わいたい。その一心が私の全てを動かしている。なので、新年早々に労働をしていることに対して褒めろとは言わない。金をくれ。金が欲しい。それだけのことなのだ。

過剰なカフェイン摂取について

 酒は昼間から飲めないし煙草は労働環境上、労働後でなければ吸ってはイメージが低下するといったくそったれの世界なので、縋り付くものは決まってカフェイン飲料だ。昨年12月の話になるが、卒業論の締め切りに追われモンスターエナジードリンクを大学受験ぶりに愛飲した。大学受験の頃はこのカフェイン暴力飲料を愛飲し、Tシャツをゲットしていたのだから今よりも命削って生きていたといえよう。その名残からか過酷で過剰な疲労に襲われるとどうしても何か縋り付きたくなるわけであって、その存在がカフェイン飲料であっただけなのだ。それだけのことなのだ。

 加えて珈琲というカフェイン飲料は何かとくっついてくる存在である気がしてならない。卒論。喫茶。休憩。読書。煙草。気が付けば今日は3杯、4杯というのは日常茶飯事である。どう思われようが珈琲には煙草である。Peaceがうまい。本当にもう駄目だ。

 昨年は休日の合間合間に純喫茶巡りをうまいこと動くことができなかったので、再開した。因みに「神保町ラドリオ」は昨年個人的純喫茶ランキング第一位である。ウインナーコーヒーを日本で初めて出したところでもある。店内のこじんまりとした雰囲気も可愛げがあり、街並みに溶け込んだ神保町らしい喫茶だ。それもあって今年は珈琲愛飲家を自称していきたい。今年は他の追随を許さない珈琲proになる。

 

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 過剰なprofessional意識による思考の制限について

 今後のキャリアについて深く考える昨年であったが故に、仕事におけるprofessional意識が根付いてしまったように思える。そこに「自由」は存在しないし、発想だって思うようにいかない。仕事に連結させたいがあまり、己を殺し、まったくの別人のような抜け殻の自分を演じ切る。それは果たして今後の人生を「生きる」ということなのか。思考が徐々に止まっていくように感じる。新しい景色など、そこにはない。

 

 遅刻は性癖

 まあ、色々なことを書いてみたが新年早々労働先の国語科の講師が「遅刻っていうのは性癖なんだろうねえ」と話してくれたことが忘れられない。遅刻しそうな状況に置かれた時、確かな「ヤバさ」を感じる。「遅れてしまう、怒られる」、「この電車に乗らなければ遅刻する」といったハラハラする展開にもしかすると遅刻癖のある人間は身を置いているだけなのかもしれない。遅刻とはそうやって自分の首を絞めることと同義で、手首をもう片方の手で絞めては血管が膨れ上がるあの感覚と似ているのかもしれない。開放した時のジワリと血の流れる温かな感覚。劣悪で過酷な労働環境に身を置いた人間が漸くして得られる休暇。近親感。

 

 さて、たいへん遅れましたが今年も珈琲をはじめとする様々な適当エッセーを心がけていく所存ですので、どうぞ閲覧される皆さま、よろしくお願いいたします。