20221010

だいぶご無沙汰。ブログはいつも書こう書こうと思っているのだが、中々時間を割く余裕も気力もなかった。5月から更新していなかった。気が付けば寒暖差が激しい季節だ。

書くのも久しいが、近況報告としてここ最近のあれこれを記していこうと思う。

 

コロナに罹る

 7月中旬。仕事もかなり忙しく疲れが溜まる中でのコロナ罹患だった。幸いにも症状は微熱(といっても38度後半まで上がったが)と多少の咳だけだった。この頃の症状として激しい喉の痛みを訴える声が多かったようにも思えるが、自分にはその症状がなかった。だからなのか、コロナと診断されるまでに時間がかかった。

 当初は軽い関節痛に襲われ、家で数日寝込んでいれば問題ないだろうと思っていたのだが発熱・悪寒の発症までのスピードが通常の風邪とは全く異なり、異様な速さで悪化していった事を今でも鮮明に覚えている。しかし、症状といっても前述したようにそれだけで、バファリンを飲めば多少は楽になり、在宅勤務を続けていた。(会社には発熱の症状がある事は発症時から連絡はしていた。)

 問題は症状ではなかった。7月中旬は全国的にも東京都としてもコロナ患者が爆発的に増え、診察可能な発熱外来がなかったのだ。発熱している最中、最寄りの発熱外来に電話をしても電話が繋がる事は滅多になく、仮に繋がったとしてもその日の診察は既に満杯、翌日また電話をかけてほしいと言われてしまった。その中で漸く発熱外来に向かう事ができ、その場で抗原検査による陽性確定、10日間の自宅療養となった。

 幸いにも後遺症はなく(数日は味覚が鈍かった印象があるが)、罹患して4日程度で気だるさはあるものの日常生活は問題なく行う事ができたのでまだ良かったのだと思う。当時は猛暑の中でもあり、これだけの多くの診察をしているクリニックに自らも駆け込み、懇願するかのようにして診察を受けた。どこから罹患したのか手前の生活を振り返っても自覚がないのだが、罹ってしまった以上、クリニックには申し訳なさを覚えた。

 結論、一人暮らしで体調を崩すのはかなりしんどいと認識したので生活を改めていきたい。

2年程待ちわびていた映画”LAMB"を観る

 海外での予告を観て、「日本では公開されるのか」「公開されるとしていつの公開になるのか」と待ちわびていた映画。内容は予告では読めず、顔は羊、身体は人間の幼児と受け取れるその奇妙な姿と、それを抱える女性。ここまでしか読めない内容なのにいつまでもこの映画を観たくて仕方なかった。内容は伏せるが、この奇妙さと、アイスランドの景色と白夜が織りなすアンビエントな背景が他のA24映画とは異なるスリラー映画として成立するのだろう。

 個人的にはもう一度、その不気味さを味わいたく公開中に映画館で観に行きたいなと思う。

klockworx-v.com

 

Junaida ”IMAGINARIUM” を観る

 ふと目に入り、この企画展が行われる事を知る。Junaida氏の事をこの企画展が催されると知るまでは知らなかったのだが、繊細な絵と、どこか寂しさすら覚える作品に惹かれ、会期開始間もなくして足を運んだ。

 立川にあるグリーンスプリングス、「PLAY!」と呼ばれるギャラリーで開催されているこの企画展は隅々に演出が施されているように思えた。特に順路の案内はなくまるで絵本の中にいるかのような、もう少し踏み入った事を言うならば”Junaida氏の作品を作品群の中に入り込んで感じ取る事ができるような”そんな空間だったことを鮮明に覚えている。気が付けば、氏の画集である”UNDARKNESS”を手にしていた。

 氏の作品をこの空間で観ていた時、最も強く感じていた事がある。それは、絵本の中にいるようなこの空間では自分も童心を思い出しながら純粋な気持ちで氏の作品を鑑賞していたという事だ。今の年齢になって幼少期の自分がどのようにして絵本を愉しんでいたのかを考えると共に、横で小さな子どもが氏の作品を鑑賞している姿を観ていると、過去と今が交差してどこかこの企画展では懐かしさを感じられたのである。

 立川という東京都の西側に来る事があれば是非立ち寄っていただきたい。

play2020.jp

転職を考える

 新卒で入社して4年目となる今、自分のキャリアについて考え直す事が多くなった。

不満を抱く事が現職の全てではないが、より専門的な領域についてキャリアを深められたらと考えはじめている。転職経験のある方、二社目を検討している人間に助言いただけたらと。自分の交友関係の中で良くも悪くも転職をした人間がいないので慎重に進めなければ・・。

 

恋人ができる

 特にこれといった私生活の変動はないが、9月末に恋人ができた。付き合うと定義付けた日の翌日、早速(超)遠距離になってしまったが、そうなる前にきちんと自分の気持ちを伝える事ができてよかったなと思う。元々休みも合わず、住んでいる所も離れている中で僅かな時間を自分に割いてくれたりするのは有り難い事だなと思う。自分がリラックスして話す事ができる存在というのはこれまでもこれから先も稀有な存在かと思う。酒を飲まずにシンプルに自分自身を曝け出せるのはこの上ない幸せなのかもしれない。

終わりに

 ぽろぽろと書いたが、あっという間に10月が過ぎていきそうだ。

先週は金木犀の匂いが街中いっぱいを漂わせていたのに、もうそんな匂いも記憶もない。金木犀の話をする人ももう近くにはいない。

そんなこんなですぐに冬がきて新年を迎えるのだろう。次書くタイミングはいつになることやら。またいつか。

20220522

ふと気が付けば前回から3ヶ月もの月日が経っていた。あっという間だ。ここ最近の自分はというと、文字と向き合う機会がめっきりと減ってしまった気がしている。友人と会う機会が増えたこともあるが、平日資料を読んだり活字に触れる事・考える時間が増えて頭が疲れ切っている事が主な要因であると思っている。加えて読書をしたいがまとまった時間がなく、読みたい本ばかりが増えては「いつか読むぞ」とその場の心意気だけは十分にして部屋に読んでいない本が積まれている。反面、映画を観に行く事は増えた。記録しているFilmarksを振り返ると今年に入って13本観ていたようだ。去年とは変わってなんだか映画を観たいと思う自分がいる。

理由は第一に、映画を観に行く事を口実に外出ができる、という事である。元々何か予定を生み出さない限り出不精な自分としては、「決められた時間」に「決められた場所に行く」事が生活の軸になり、休日の自分を支えるようになった。今日だって、朝起きて最寄りの映画館のスケジュールを確認しては先週何となく観ようと思っていた「流浪の月」を観た。これが個人的にはかなりの衝撃的な作品で、何だか当分は引きずりそうな気がしている。俳優もキャストだけで贔屓目にする事なく、役に対して没入しながら観る事ができたな、と。二週間前に観た「死刑にいたる病」の阿部サダヲの怪演っぷりで唸っていたし、何かと邦画にも生活を励まされていると思う。

gaga.ne.jp

siy-movie.com

なんだか映画の話が今日の主題になりそうが、続けていく。

 

自分が映画を観に行く基準というのは明確に定められるようなものはないけれど、基本的には海外ホラー、スプラッター、SF辺りを好んでいるように思う。決して「邦画は劣っているので観ない」なんて意識はないのだが、どうも海外の映画に気を取られがちなので自然と優先度が下がっている。

もう一つ言うならば、あまり大きなスクリーンは得意ではないように思える。これはただ小さなスクリーン・ミニシアターで観る事が多いからなのかもしれないけれど、先週「シン・ウルトラマン」を日比谷IMAXで観た際にあまりにも大きなスクリーンと音響で少々疲れを感じていた事もそう思う要因の一つなのかもしれない。いや気持ち的には「折角の映画だし大きいスクリーンで、一番良い席で観たいよね」と思っているのだが・・多くの人が入るよりも小さなシアターで、静かにレイトショーで観るくらいが自分には丁度良いのだなという気付きだ。平日のレイトショーで観られるのなら、是非そうしたい。

個人的な感覚にはなってしまうのだが、特にホラー・スプラッター映画は物静かな時間に一人で唸りながら観終え、劇場から出る際に誰一人言葉を発する事のない「あの感覚」が物凄く好きで(皆がおぞましいシーンや内容を「感想」として作品を観終えた瞬間だけでは形容するには難しいような)それを期待して観に行っている、まであると思う。「POSSESSOR」とか「TITANE」とか、「ハッチング」とか・・まさにその時間を皆が共有するかのように黙り込んで劇場を出ていく瞬間が何より堪らない。咀嚼しきれないほどの恐怖を抱かせてくれる作品は自分が観たいと思えるホラー映画なのだと思っている。そうは言ったものの、感想を書く・記録する間もなく時間が過ぎてしまうのも嫌なので、どうにかメモをまとめていきたいとは思っているのだけれど。有り余るほどの時間が今は無性に欲しくてたまらない。

早稲田松竹で昨年見そびれた(というよりチェックし忘れていた・・)「マリグナント」も中々で。ストーリー云々よりも様々な恐怖がまだ続くのかというくらいにはシーンとして描き出されていく進行には脱帽した。それこそ「まだあのシーンの怖さから逃れられていないのに・・」といったように観る者をガンガン殴ってくるような仕掛けの連続だった。たまにこうやって再上映してくれる劇場には感謝・・

possessor2022.com

gaga.ne.jp

gaga.ne.jp

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気分で書き殴っていたら良い感じに映画のあれこれが書けたのでここで終わりにする。

今日でこの街に引っ越してから丁度一年が経っていた。たった今、このブログを書いていてふと気が付いた。あと一年くらいかな。どうなることやら。

20220220

茶店Macの電源を入れ、いざ文字と向き合おうとすると頭から浮かんでいた言葉も文字ももやがかかったかのように見えなくなってくる。日々、何かを常に思考している自分なはずなのに、言語化どころか感情の全てが見えない何かに支配されてしまったかの様な気持ちになる。

ここ最近の日曜日の昼間は大体喫茶にいる。翌日の事や自分の時間を守るには、喫茶は最適だと思う。引っ越しをして、最寄り駅が大きく、それなりの規模感を持つ中で人気の少ない喫茶があるというのは不思議だ。隠れたエスカレーターを上がって2階にあるこの喫茶は騒がしくなく、窓の近くの席に座るとこの街の動きを少しだけ俯瞰した様な気持ちで見られるから何だか楽しい。

この1週間、誰にも会えていないなとふと感じた。別に会わなくてもやっていける、とも思うけど、ふと振り返ると誰にも会えていない事を知る。会いたい人ってそもそも、というのもあるけれど。基本、一人行動が多い。買い物も映画も、美術館に行くのも、自分の思考を遮りたくないというのが本音だ。

以前に映画を観る事は一度誰かと行くのも良いかな、と思った。しかしそれも自分にとっては難しい事のようで、隣に座っている知人を多少なりとも気にしてしまう癖があるし、観終わった直後の感想交換会の様なものが苦しい。自分は感想がまとまるまで何度も自分の中で作品を反芻しては纏まりを得ていくタイプだと思っているので、感想を直後に聞かれても何も返せない・・部分がある。だから、苦しいのだと思う。人と何か同じものを観る事が。

 

 

20220122

前回の更新からかなりの時間が経ってしまった。気がつけば新しい年を迎え、変わりない日々を過ごしている。

年末年始は長めの帰省(といっても隣県だが)をした。その帰省も結局は高校の友人たちと会い、コロナが収束したわけでもないが「今会えてよかったよね」なんて言い合い、こじんまりとした人数で酒を飲んだりした。年始が過ぎた瞬間に世間はまたもオミクロン株に揺さぶられている。

新年の目標は、とよく言うが元々目標というものが好きではない。悠々自適に暮らしたいからとかそういう事ではない。新年早々に自分を確定付けるような事を言いたくないだけだ。だから、1月はのんびり生きられれば良い。自分の性格や感情、思考は大切にしたい。世間の不確定な情報や意見、俗説に揺さぶられず、自らの意思の下で決定したい。

そういった目標とは別物で、今年ぼんやりと意識したい事はある。世間を広く、浅く、知ろうと思う。保守的な意識をなるべく自分から離す。凝り性故の凝りは残しつつ、なるべく自分の守備範囲外の事物と触れ合う機会を増やす。その上で、より自分が好きであると思えるものは何か探すことにしよう、と。

私生活でいうと、酒の嗜み方をそろそろ良い「加減」を覚えたいなと思う。そもそも沢山飲んで、酒があるから楽しくなれる、みたいな自分自身への意識をやめにしたい。御年25歳だから、というのもある。それに落ち着いて酒を探したいなと思う。これはコロナで在宅期間が増え、一人暮らしを始めて好きな酒を買いだめる事ができるようになったというのも大きい。できればそうやってゆっくりとした時間を過ごしていく中で、気の合う友人と気になる互いの酒の情報交換ができたら良いなと、薄ら思う。

まとまりが悪い

10月は仕事的にも忙しいし、季節も変わり目に差し掛かってきたのか、非常に調子が悪い。なんていうか、直感的だけど、まず一つに文体がまとまらない。冷静な判断ができていない。多分、時間的に余裕がない。逼迫されているのだな、と思う。決められた時間の中で、考え、言葉を返す、といった普段通りのルーティンが何かによって阻害されている。常套句的に「季節の変わり目だし〜・・」って、言いたい。許してほしい。

Twitterもこういう時に見ていても良くないな、と思う。何か言いたいけど、消す・下書きという駄文の墓地に収めている。かなりの駄文という死体で山積みになっていて、それに気が付いた時(というか今)、そういう時ははてなブログに全部投げてさようなら、って決めていた事を思い出す。

 

長々書いたけど、要はメンタル面だと思う。正直、あんまりよろしくない。

 

ただ、体調面は幸いにもそれなりで、ワクチン接種で想像していた通りの寝込みをしたくらいだった。二回目となると何となく予兆も調子もわかってくるけれど、そもそも「明日絶対に体調崩しますよ、自分」と、想像できる不思議さというか、気持ち悪さというか、初めての体験だったので不気味だ。と言っても恐らく副反応が出た人間の中ではまあまあ辛かったんじゃないか、と思っている。この日に初めて大戸屋の定食を食べた。Uberだけど。調子が良くない時は大戸屋のご飯なのかもしれない。これを知ることができたのは良かった。

 

緊急事態宣言が解除されて、少しずつ飲食店に夜間の賑わいが戻りつつある。吉祥寺もついこの前までは殺風景な街並みだったのに、自分がそれまで来たことのなかった姿を戻しつつある。とはいえ自分も何軒かかつて訪れていたお店があったので、仲の良い友人と飲みに行った。コロナ禍で会っていなかったので二年振りだった。それでも変わらず世間話から知り合ってからお互いに頑張っている事がコロナ禍に遮られずに続いていたりと、とても良い時間だった。と思う。ただ、記憶がない。何を話していたのか、覚えていない。これも二年振りだった。無意識に二日酔いを避けるスキルが自分自身の内に健在だった事を朝起きて気がつく。毎回そうなんだけど、二日酔いにならない代わりに、朝起きて自分自身の酷い行動に憂鬱になる。本当に首吊りたいレベルの希死念慮で一日中苛まれる始末。良い歳、大人しく、自制したい。

 

本当は先週行った庵野秀明展のこととか、それに感化されて観た庵野作品のレビューとか、そういう事を書こうとしていたのだが、何とも言えない気持ちでいっぱいで、そんな余裕もないみたいだ。意外と夏は映画も観たことだし、その辺りにも触れたかったが、記録するほどでもないという事なのだとも思う。もう少し下書きに寝かせておいて、時期が来たら書けばいい。

 

10月は無心に通り過ぎるのを待つくらいで静かに生きていきたい。ただでさえ外的要因で揺さぶられやすい今の心、これ以上息の詰まるような出来事が起こらない様にただただ願うだけだが。それに11月末までは忙しない日々が続く。三年振りに展示をすることにした。特に深い意味は無い。元々個人で展示を今年度はできればと思っていた所に企画展を共にすることになった。タイミング的には緊急事態宣言も解除されて、好機かなと思う。個人的には無理に来てほしいとは誘わない性分なのでギャラリーが運営できる状況というだけでも大変嬉しく、有難い。でも、このままコロナもどこか過ぎ去ってほしい。これで終わりにしよう・・

 

 

・最近聴いていて好きになった曲

吉澤嘉代子「サービスエリア」

Cocco「ポロメリア」

赤い公園「消えない」

きのこ帝国「You outside my window」

 

父のいない九月もこれで二回目になる。「命日も近いから、連休で実家に戻ってきて」と母親に言われて、この連休で実家に帰った。本当は毎月何らかの形で帰ろうと思っていたが、8月は控えていた。

小田急線下りから見える景色はもはや懐かしい。最寄りに近づくにつれて車窓から見える田畑は、ついこの前まで毎日の様に見ていた景色にも関わらず、どこか幼少の頃を思い出す。

午前中から実家に帰ると、そこには父親の同級生が先に家に来ていた。二年前に父親が緩和病棟に入院してから接点が私とも濃くなった4人。それぞれのキャラが濃く、仲の良いおじさん達。いつ見ても羨ましい関係だな、と思う。

世間話も交え、少しばかり仕事の事を聞かれる。父親と同じ歳の、妻帯持ちのおじさん達に仕事の事を話す。父親が生きていたら、どんな事を話しただろう。悩みを打ち解けても大した返事をくれなかった寡黙な父親だったが、時間をかけて返してくれる答えを今でも欲しくなる。

今日はおじさん達と、母親と私で父の眠る墓参りをする事になっていた。ぎこちないが、私が運転して、母を連れて行く。少しは何か進んだ姿を見せたい。この歳になっても誰に対しても背伸びをしたがってしまう。

形式的に墓参りが終わる。ここでおじさん達とは別れる事になる。不意に「おじさん達は、いつまでもどうかお元気で」「おじさん達は、家族を大切にしてよ」と言葉が出る。準備していない言葉、本心が咄嗟に出てしまう。

帰りの車中で母と二年前の事を話す。今になっても当時のその時々の選択肢は間違っていなかったのか、なんて思い出話ばかりだ。そして口癖の様に「なんでうちのパパだけが、あの中から先にいなくならないといけなかったのかなあ」なんて言う。事実、私もそう思う。ずっと私の中に遺る母の言葉だと思う。息子にはどうにもならない、どうしようもない、感情。

けれど今年の九月はどこか明るかったと思う。父がいなくなってから訪れる初めての九月よりも、今年の九月は笑い話が絶えず、今の家庭にも少しずつ陰りの中から光が差し込んでいる様に思える。痛みと悲しみは時間の経過と共に忘れていくことでしか拭えないものなのではないかと思う。ずっと引きずる必要もない、風化させていく事も時には必要だ。遺された人間にも残された有限な時間がある。いない人のあれこれを考えてもどうしようもない。特に元々寡黙な父が今になって何か話してくれるわけでもないのだ。母にこんな事を面と向かって言えはしないが私がそう思うなら、母が残された時間を少しでも前に向く事ができる様に舵取りをする責務がある。

あまり長く実家にいても居心地が良過ぎるので、早々に実家を出た。まだ何となく実家を出る時に寂しい気持ちが湧き上がる。正確には色々と考えてしまうからなのだが、今は寂しいとしか、形容できない。時間が経つにつれて何処かにこの気持ちも置き去っていくのだろうか。

20210911-0912

近況

味気ない日々が続いている。出張先からもコロナ感染が拡大してきているから、と東京に住んでいる為に入県自粛・・と言われてしまった。その事もありここ数週間はほとんどが在宅勤務になっている。9時30分に始業し、19時過ぎまで残業をする。その後はそれまで仕事をしていた場所が、プライベートの場所に変わる。強いて言えば観る画面が変わるくらいだ。

家を出ない生活が繰り返されると段々と近距離すら外に出る事が億劫になる。徒歩10分圏内にあるスーパーもコインランドリーも億劫だ。何かをするために外に出る事に嫌気が差す。

抑えられた空間の中で人間として生きていく事は難しい事ではない。その空間の中で順応し、満足した生活として成立してしまうものだ。

とはいえ休日、有意義にしていきたい。味気ないこの日々に少しでも味付けをしなくては、と私が私自身の背中を勝手に強く押す。まずはベッドで横たわっているこの重い身体を起こす必要がある。そこに時間がかかる。午前はぼんやりとニュースを読んだり、気になる映画の予告編を観て、午後の予定を立てたり、部屋をベッドから眺めて買い物しなければならないものを考える。そんなこんなで午後になる。

重い身体、要因は連日酒を飲む様になった事が一番の要因だと考えている。その影響からか朝起きるのが大変辛くなってしまった。外で飲みに行っていた頃は、自宅で飲むなんて考えられなかったが、この1年で家で飲む量が増えた。ほぼ毎日だ。恐らく社会全般が同じ様な状況なのだろう。酒を飲むのは好きだしやめられない。それに毎日500ml1缶を寝る数時間前に飲み終わるので、問題ないはずだった。だが、ここ最近は朝起きるのが以前よりも大変辛いと感じる。酒以外にも要因はある。仕事のストレスとか、仕事のストレスとかが、まさにそうだ。単純に業務内容が自分と肌に合わない事、会社としての将来像が見えてこない事、ビジネスモデルとして果たしてこれを正として良いのかどうかといった、私個人としての倫理観との葛藤。単に上司や取引先と関係が悪いとか、もっと単純な理由だったら早く辞めているのかもしれない。私自身がこういう風に思うだけで、世間としては大した事のない悩みなのかもしれない。そもそも自分自身が絶対に正しいだなんて思わない。だからこそ、簡単に転職といった答えで良いのか迷う。

身体を起こす理由にだいぶ文字数を使ったが、休日に何もしないで一日が終わるというのだけは避けたい。とはいえ人に会う気がない。先週末、両日共に人に会ったし一人の時間がほしいというだけの事だ。

改めて夏を思うと

今年の夏。空虚な時間がただただ流れていただけだった、としか言えない。8月末に海に行ったし、夏らしい事はしたと言えばしたけれど、それだけだ。毎日が夏っぽくなくて、やっぱりコロナ禍では季節が死んでいるなあと思う。これまで私が感じていた季節というものは外で起こるイベントや友人との機会、遊ぶ中に存在していた。これまでの季節とこれからの季節の感じ方はまた異なるのだろう。でも私的には春も夏もあまり違いがわからなかったな。やっぱり、味気ない。